(11月11日追記。いまにしてみれば日本国憲法公布記念日の11月3日にこの投稿を掲載できてよかったと思っている。この問題はまさしく戦争と圧制を乗り越えて得た日本国憲法の根幹の問題だからである。コメント欄もぜひ一緒に読んでください。)
山本太郎参院議員が天皇に園遊会で手紙を渡したことを保守からもリベラルからも「軽率」「とっぴ」などと言われているが、そもそもこれを「一大事」と言って騒ぐ姿勢自体に天皇を重視しすぎ、特別視する傾向が見られる。
「世が世なら不敬罪」という風に批判する人は戦前戦中の世、つまり天皇を「神聖にして侵すべからず」と定義した大日本帝国憲法の世に今でも住んでいる人、またはそのような世を懐かしんでいる人である。そのような言い分は時代錯誤なだけではなく、主権を天皇ではなく国民に置く日本国憲法に反する発言であり、そのような人間の言うことには一瞬でも耳を傾けるのではなくその違憲性を厳しく問う必要がある。
しかし「とっぴ」とか「軽率」とかいうリベラル派の評価の中にも「天皇に直接手紙を渡すなんて御法度!」的な態度があることは否めない。どうしてこんなに大騒ぎするのか。山本議員は「直訴した」とは言っていないのに「直訴」と報じるメディアが多い。足尾銅山事件についての田中正造の天皇への直訴と並べて論じる人がいるが、天皇の憲法における存在が全く異なる時代の行為と比べることには厳重な注意をしたい。
しかし一連の騒ぎを見て思うのが、日本人の意識における天皇の存在が、戦後の憲法における天皇の存在の変化についていけてないことであり、私はこれを一番問題視する。これは日本人の戦争に対する反省の欠如を、とくに大日本帝国の下にアジア全域にもたらしたおびただしい侵略と植民地化の被害、日本人を含む何千万人にもおよぶアジアの人々が天皇の名の下に服従させられ、殺し殺されたことを反省し、二度とこのようなことはしない、させないために新憲法においては天皇の政治的権力を剥奪し、人々の「象徴」として定義し直したことに対する認識欠如を反映している。
このように憲法で定義し直して天皇を温存したことが正しかったことなのかどうかの議論は別にして、日本人の意識の中ではいまだに天皇をはれものにさわるように扱っている。メディアが皇室の人について報道するときは他では絶対に使わない「・・・されました」といった尊敬語を使い、皇室のメンバーは赤ちゃんでも「さま」づけで呼ぶ。天皇の娘の清子さんは結婚して民間人になった途端に「さま」から「さん」になった。天皇家とその他の人間の間には大日本帝国憲法的な絶対不可侵のラインを引いているようにしか思えない。被災地訪問などでも天皇はつねに熱烈に歓迎されるべき存在として演出し、天皇を敬愛しない人のことは絶対に報道しない。全て日本人が乗り越えたはず、乗り越えなければいけない大日本帝国憲法の価値観を引きずっている行為である。
天皇に対する「陛下」という呼称も、宮殿の階段の上に相手がいて、臣下である自分は階段の下にいるという絶対的な身分差を示す言葉である。天皇を「天皇陛下」と呼ぶこと自体に違憲性はないだろうか。私はこのことに気づいてから天皇に言及するときに「陛下」という言葉を使うことは一切やめることにした。まあそんなこと言ったら「天皇」という呼称自体にも問題があるのだが。
私は、取沙汰されている「天皇の政治利用」よりも、天皇を上のような戦前戦中の大日本帝国憲法の枠組みで捉える動きの方を問題視している。天皇を重視しすぎるという意味では山本太郎議員が下の写真のように天皇に最敬礼する姿にも見られる。もちろん天皇に最敬礼するのは彼だけではないが。人間としての敬意を示すなら普通のおじぎでいいはずだ。憲法上平等な相手に示す姿勢ではない。
自民党改変案は現行憲法にはない、国民の憲法尊重義務を最初に持ってきて、憲法は国家権力の制限であるという立憲主義に反しているとの重要な批判があるが、この改変案は現憲法の主権在民の原理を根本的に覆す要素を含んでいる。それは、現行憲法では憲法尊重・擁護義務がある人のトップとして記されている天皇が、憲法尊重・擁護義務から免除されていることである。これは「天皇だけが憲法を尊重・擁護しなくてもいい」ということを示唆しており、これが意味することは、憲法により監視、制限する国家権力から天皇を除外し、天皇を憲法の上に立たせるという可能性があるからである。ということは、ときの政権が天皇の権威の名の下に憲法違反をやってもいい余地を与えてしまうのではないか。これは天皇を神聖化する第日本帝国憲法回帰の傾向がもっとも如実にあらわれている改変案であり、徹底的に問題視されなければいけない。@PeacePhilosophy
山本太郎参院議員が天皇に園遊会で手紙を渡したことを保守からもリベラルからも「軽率」「とっぴ」などと言われているが、そもそもこれを「一大事」と言って騒ぐ姿勢自体に天皇を重視しすぎ、特別視する傾向が見られる。
「世が世なら不敬罪」という風に批判する人は戦前戦中の世、つまり天皇を「神聖にして侵すべからず」と定義した大日本帝国憲法の世に今でも住んでいる人、またはそのような世を懐かしんでいる人である。そのような言い分は時代錯誤なだけではなく、主権を天皇ではなく国民に置く日本国憲法に反する発言であり、そのような人間の言うことには一瞬でも耳を傾けるのではなくその違憲性を厳しく問う必要がある。
しかし「とっぴ」とか「軽率」とかいうリベラル派の評価の中にも「天皇に直接手紙を渡すなんて御法度!」的な態度があることは否めない。どうしてこんなに大騒ぎするのか。山本議員は「直訴した」とは言っていないのに「直訴」と報じるメディアが多い。足尾銅山事件についての田中正造の天皇への直訴と並べて論じる人がいるが、天皇の憲法における存在が全く異なる時代の行為と比べることには厳重な注意をしたい。
しかし一連の騒ぎを見て思うのが、日本人の意識における天皇の存在が、戦後の憲法における天皇の存在の変化についていけてないことであり、私はこれを一番問題視する。これは日本人の戦争に対する反省の欠如を、とくに大日本帝国の下にアジア全域にもたらしたおびただしい侵略と植民地化の被害、日本人を含む何千万人にもおよぶアジアの人々が天皇の名の下に服従させられ、殺し殺されたことを反省し、二度とこのようなことはしない、させないために新憲法においては天皇の政治的権力を剥奪し、人々の「象徴」として定義し直したことに対する認識欠如を反映している。
このように憲法で定義し直して天皇を温存したことが正しかったことなのかどうかの議論は別にして、日本人の意識の中ではいまだに天皇をはれものにさわるように扱っている。メディアが皇室の人について報道するときは他では絶対に使わない「・・・されました」といった尊敬語を使い、皇室のメンバーは赤ちゃんでも「さま」づけで呼ぶ。天皇の娘の清子さんは結婚して民間人になった途端に「さま」から「さん」になった。天皇家とその他の人間の間には大日本帝国憲法的な絶対不可侵のラインを引いているようにしか思えない。被災地訪問などでも天皇はつねに熱烈に歓迎されるべき存在として演出し、天皇を敬愛しない人のことは絶対に報道しない。全て日本人が乗り越えたはず、乗り越えなければいけない大日本帝国憲法の価値観を引きずっている行為である。
天皇に対する「陛下」という呼称も、宮殿の階段の上に相手がいて、臣下である自分は階段の下にいるという絶対的な身分差を示す言葉である。天皇を「天皇陛下」と呼ぶこと自体に違憲性はないだろうか。私はこのことに気づいてから天皇に言及するときに「陛下」という言葉を使うことは一切やめることにした。まあそんなこと言ったら「天皇」という呼称自体にも問題があるのだが。
私は、取沙汰されている「天皇の政治利用」よりも、天皇を上のような戦前戦中の大日本帝国憲法の枠組みで捉える動きの方を問題視している。天皇を重視しすぎるという意味では山本太郎議員が下の写真のように天皇に最敬礼する姿にも見られる。もちろん天皇に最敬礼するのは彼だけではないが。人間としての敬意を示すなら普通のおじぎでいいはずだ。憲法上平等な相手に示す姿勢ではない。
それを言ったら以下の4月28日政府主催の「主権回復式典」最後の光景などは目も当てられぬ、天皇を絶対化するような違憲的行為である。山本太郎議員の比ではない。4月の出来事であるが絶対に許し忘れることはせず遡っても厳しく追及すべき一件である。
これは国事行為でも何でもない。メディアは、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約で切り離されて米軍政下に取り残された沖縄からのこの式典に対する反対だけを強調したが、実際は国会議員は半数以上が欠席、都道府県知事も半数近くが欠席したという、国を真っ二つに二分した出来事だったのだ。安倍政権はそのような行事に天皇皇后を出席させただけでなく、二人が退場するときに何者かが「天皇陛下万歳!」と叫んだとき、上の写真に見られるようにそれに安倍首相以下主催者、列席者の大半が同調して二人の前で「万歳三唱」を行った。
くわしくは沖縄タイムス5月9日版に掲載された拙文参照。
歴史誤認識に満ちた「主権回復の日」式典
この式典は50分弱であったと記憶しているが、式典後しばらくは、その全てを記録した動画が官邸のHPで見ることができた。
しかし今日あらためて行ってみたら首相の式辞の部分だけになっていた。
全部の動画がアップされていた当時見たときは、問題の「天皇陛下万歳!」の部分だけが音声がミュートされていて、二度目の「万歳」から音がフェイドインされて戻っているのを見て、官邸は姑息な工作をするものだと思った。と同時に、「天皇陛下万歳」はさすがにまずかったと、最低限のうしろめたさを政府は持っているものだと思ったことを覚えている。
(11月8日追記。@hilooooooooooooさんがこの「ミュート版」が政府インターネットテレビのサイトにあることを教えてくれた。「主権回復・国際社会復帰を記念する式典(全編)」http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg7853.html 問題の箇所は39:00あたりから見てください。)
今回の論争に参加することで「天皇重視・特別視」に加担することになると思いしばらくどうしようか考えていたが、山本議員の行為を批判する側にも擁護する側にも「天皇重視・特別視」があることにきづき、このような問題意識の下での発言がほとんど見られないこともあってここに書くことにした。
ついでと言っては何だが自民党憲法草案においては「国防軍」の設置や人権の制限などが問題視されているが、憲法99条の改変案を問題視する声が足りないのでこの機会に付け加えておく。
現行憲法99条:
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
自民党改変案102条:
第百二条 全て国民はこの憲法を尊重しなければならない。2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。
自民党改変案は現行憲法にはない、国民の憲法尊重義務を最初に持ってきて、憲法は国家権力の制限であるという立憲主義に反しているとの重要な批判があるが、この改変案は現憲法の主権在民の原理を根本的に覆す要素を含んでいる。それは、現行憲法では憲法尊重・擁護義務がある人のトップとして記されている天皇が、憲法尊重・擁護義務から免除されていることである。これは「天皇だけが憲法を尊重・擁護しなくてもいい」ということを示唆しており、これが意味することは、憲法により監視、制限する国家権力から天皇を除外し、天皇を憲法の上に立たせるという可能性があるからである。ということは、ときの政権が天皇の権威の名の下に憲法違反をやってもいい余地を与えてしまうのではないか。これは天皇を神聖化する第日本帝国憲法回帰の傾向がもっとも如実にあらわれている改変案であり、徹底的に問題視されなければいけない。@PeacePhilosophy