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今こそ生きる、戦後60年の加藤周一から後の世代へのメッセージ

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日本の敗戦70年が終わろうとしています。10年前聞いて感銘を受けた「知の巨人」加藤周一氏(2008年12月5日没)の、「戦後60年」2005年8月に放送されたラジオインタビューの書き起こしを紹介したいと思います。この日の加藤氏のメッセージは10年後の今、日本が戦争の教訓を忘れ、米国に追従し、再び隣国を憎み、戦争への道を進みつつあるからこそ、そのような潮流を市民の力で止めるために聞くべきものであると思ったからです。

メッセージを抽出すると、
加藤周一 (1919-2008)
  • 南京陥落のときは旗行列ができた。若い人に言う。「旗行列はするな」と。
  • 若者に過去の戦争への「責任」はないが「関係」はある。
  • 戦争は武器を持って戦場に行く人だけではできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観に支えられているからできる。
  • 今も残る戦争の要因を調べないといけない。戦前と戦後の連続性を。そのために歴史を学ぶ。
  • たとえば南京虐殺の背景の一つに人種差別があるとしたら若者にとっては今もその人種差別が今も生きているかどうか調べることが大事。そのためには勉強すること。
  • 人種差別がまだ生きているのに黙っているのなら消極的に支持しているので結果的に全責任がかかってくる。「関係ありません」じゃ済まされない。
  • 政府はしばしば嘘を吐く。戦争になるとさらに。英語を学ぶのは日本語で書いていないことを暴くため。
  • ドイツ人がナチの犯罪を認めたように、日本は日本陸軍が中国でやったことを認めるべき。
  • 平和をつくるには個人の精神の自立が大事。大勢に順応するのではなく自分の考えに歴史的事実を突き合わせて自分で考える。


―私の戦後六十年、今日は評論家で戦後日本について様々な角度から考えてこられました、加藤周一さんをご自宅のあります東京世田谷にお訪ねしました。喫茶店の二階で今お話しを伺っております。加藤さんはこのところ精力的に戦争についてまた高校生など若い世代との対話を重ねていらっしゃいますけれども、色んな方が戦争体験っていうのは若い人に伝わらないんじゃないかというふうにおっしゃる方もいらっしゃるんですが、その経験があるかないかということといのはとても大きなものでしょうか。

そうだろうと思いますがね、前に私は読者から論文を募って「私の昭和史」っていう小さなものを作ったんですけどね、昭和っていうのはずいぶん長いわけですよね。戦争は十年でしょう、長く見ても十年戦争。ほとんど九割―あるいは99パーセントかな。戦争の話なんですよ。私の昭和史っていうものを日本人に求めるとね、何を書くかっていうと戦争経験を書くんですよ。割と若い人は、戦争のときはまだ子供だったわけですけれど、子供としての戦争経験を書いて、大人の場合は大人としての戦争経験を書くんです。だから十五年戦争っていうのは日本のその時代を通ってきて、非常に大きな中心的問題なんですよね。で、どう中心であったかというのは人によって違うけど、とにかくほかのあらゆる経験を圧倒するような強い経験であったというのは言えるんじゃないかと思います。

―加藤さんご自身の戦争のご体験というと、東京におられたんですよね?

そうですね。ほとんど…まあ、非常事態のときは信州に疎開しましたけどね。

―そうすると東京大空襲のご体験が?

その時は本郷の東京大学の医学部の附属病院に勤めていたんですよ。ところがね、附属病院にある年齢以上の、老人でもないけどね、相当年齢の進んだ人たちが何人が残ってた。私みたいな若い医者もいたんですが、みんな病人ないし病気あがりとかそういう健康上の障害でいわゆる兵士になれんような人はね、ちょっと残ってたんですよね。普段の三分の一くらいかな、合わせた数は。すごい人手は不足してるわけです。看護婦は全員いたんですけどね。医者は三分の一くらいしかいなくて、そこに大空襲がくるでしょ。近所の人は―まあ大きな病院ですから―病院に来たわけですよね。大学の校内に入って、たちまちベッドがいっぱいになっちゃってね。そこで床に寝かすわけですがたちまち床もいっぱいになっちゃって。だからしょうがないから廊下に一列に寝かして、やっと通れる空間を残して、後の床は全部病人を寝かしていたんですよ。それでも入りきらないっていう状態なんですよね。それを非常に少数の医者がまあできることをしたわけだ。それはほとんど昼夜兼行になりましたね。あのくらい少ししか寝なかったことは我が生涯の中でないですよ。朝から晩まで、もちろん家には帰らないわけですよ。私は病院の中に泊まり込んでましたから。だから朝起きると病院なわけだ。ただちに仕事にかかるわけですから。かろうじて昼食をとるかとらないかという状態で真夜中に達して、でまだ続いて、だから寝る時間はほとんどなくて、ちょっとでもあればねもう頭がくらくらしてきますから。そうしたら三十分か一時間が寝てまた仕事って感じが一週間くらい続いたかな。

―集まってくる方の様子はどんな感じで?

主として火傷ですね。火傷っていうのは体液が染み出しちゃうんですよ。液体が減るから循環血液が濃くなって、ある程度以上減れば血圧が下がって致命的になるわけ。だから何がなんでもどうしてもある程度の血圧を維持するためには輸血しなきゃならない。ところが輸血の血がないわけですよ。だからたちまち使いきっちゃうから、あとはリンゲル液のようなものを作って注射するわけですよ。で、まあ一時は血液の代わりになるわけですがやっぱり血液じゃなきゃ漏れるのが早いんですよ。だから入れてもまたすぐ足りなくなっちゃう、そういうイタチごっこみたいな。

―薬もなくて助けられない状況の人たちをいっぱい目の当たりにしたときに、一人の医者としてはどういう気持ちになるものですか。

どういう気持ちにもならないですよ。こっちも死にもの狂いですから。あんなに働いたことはない。まあ強いて言えば一種の連帯感はあったな、被害者同士の。こちらも全力で、寝てる人たちを、火傷になった人たちも何の罪もないわけで、その人たちをできるだけできれば助けたかったわけですから。そういうことはもっと徹底した形で広島で起こるんですね。広島で爆弾が破裂したときにいたわじゃないですが、医学的調査のために九月になってから行ったんです。もうひどいんですよね。それでも広島の中心部がやられて周辺部の病院が少し残ってて、あるいは病院じゃなくて学校とか郵便局とかでも壊れずに残ってるところがあればそこに患者を入れて。患者は周辺部の人たちですね。それもやはりできるだけのことをするって言っても手が限られてるから、やはり輸血は重大な手段なんですができないんですよね。それでも医者ができるだけのことはしたわけですよね。

―広島を体験した方が、広島では生きたものは何もなかったとおっしゃっていたんですが。

そう。落ちた後の中心部は一か月半経っても生きたものは何もないです。もちろん生きたものは人間、犬、猫だけじゃなくて虫もいないんだよ。夏だけど蚊とか蠅とかもいないんですよ。真夏だけども雑草も生えないんですよ。木は全部葉がないか、黒く焼けちゃってるわけ。

―加藤さんの様々な体験のベースにはやはりそういう東京大空襲、広島で見たものというのは濃く基礎にはあるわけですね。

そうですね。もう一つ今でも私が戦争体験として、私の出発点になったって言っているのは、二人友達が死んでるんですよ。一人は高校のときの同級生。徴兵されて死んじゃったんですね。もう一人は医学部の同級生で、私は医学部を卒業してたら大学病院で学ぶということができたんですが、大部分の健康な医者は皆いきなり軍隊に配属させられて、でそこで戦死しちゃったんです。医者は船に一人ずつ乗せるんですよ。海軍に行ったやつはね、どんなに経験がなくても潜水艦とか駆逐艦とかがあれば一人ずつ乗せるわけ。それから輸送船は輸送船で一人配属されますね。死亡率が非常に高かったな。それが無理だっていうのは当時でも我々はわかっていたんですよ。非常に高い確率で船が沈むということはね。要するにある程度の制海権を持たずに輸送船を出港させること自体がばかげているわけですよね。無意味なることに犠牲にされたので、当然友達を失ったショックを同時に、そういうことを命令した権力に対する極度に強い反発を感じましたね。どうして彼が殺されて、私が殺されなかったのかってことを考えますよね。その理由は全くのくじ引きみたいなものですよね。つまり死は全く不合理なもので、全く理由のないただの残酷な偶然だな。戦争に対して批判的でしたからね。そういう人がだんだん減ってきてほとんど最後のほうは本当に話ができないんです。みんな満州国は日本の生命線だ、今度の戦争は聖戦だと謳っているわけですから。大変な孤立感でしたね。だから私の戦争体験と言えば日本国内で経験したこの孤立感ですね。

話は飛びますが現在の状態でもいろいろ部族闘争とかがあったよね。スンニ派とシーア派なんかの争いがあって、だからそれを止めるために、人の命を救うための人道的介入とかってありますよね。しかし戦争じゃなくても、今でもたとえばアフリカの場合では部族間の衝突で大勢の人が死ぬことがあるけど、しかし今でもマラリヤとかエイズとかの死亡率は非常に高いんですね。そういうことの援助に限らず、まだまだやるべきことは日本に限らず世界にはあるんです。マラリヤで死ぬ人はほっといたのに、部族衝突で死ぬ人がいるという理由でそこに軍事力介入するっていうのはちょっと偽善的なんじゃないかと。マラリヤには治療法も薬もあるんですね。薬を大量に投じればことは済む。伝染経路も蚊だということが分かっています。マラリヤを撲滅しようと思えば可能なんです。もちろんお金も技術者の援助も必要ですよ。しかし戦争にかかる金を考えれば、その金の何分の一かの金を投じれば人が救えると思うんですね。

―私の祖父も南京で戦病死していたという話を後で聞いたんです。戦争に行って戦いで死んだのかなと思っていたんですが、一人苦しい思いをしながら、水がほしいと言いながら、病院で病死をしたと聞いた時、非常に切ない思いをしたんですがそういう方は多かったんですね。

はい。まあこれは第一次大戦でもそうなんですが、直接弾に当たって死ぬという意味での戦死よりも戦病死のほうが遥かに多い。これは日本に限らず国際的にです。大抵の兵士は戦病死しています。それは十分な手当てがなくて、非常に悲惨な状態で、そこに英雄的で勇ましい感じは全然ないんですね。

―実際は輸送船で亡くなったり戦病死をなさったりということが多いわけですから、まあかっこいいものではないということですね。

それはそうですよ。戦争はかっこよくない。全然ね。ただ問題は、戦争は突然起こるんじゃなくて1931年の満州国に始まりまして、1937には盧溝橋事件から上海事変になってそこから南京。戦線が全中国本土の拡大するという形になるわけです。南京に入城したときには南京陥落の旗行列ができました。東京にいたわけですから、それも私の戦争経験の一つです。爆撃だけじゃなくて旗行列も見たんですよ。私とその旗行列の人たちとの唯一の違いはね、私は193712月の南京陥落のときに東京が焼け野原になるのは時間の問題だと思っていたことです。ところがその旗行列の人は祝ってるんですから、だからもちろんそうは思ってなかったですよ。1941128日、日本軍がパールハーバーを攻撃したときも旗行列です。それはアメリカの軍艦をたくさん撃沈したから。私は、今はアメリカの軍艦を撃沈してもアメリカを攻撃すれば東京が、日本が滅びるのは時間の問題だと思っていました。それがただ一つの、でも重要な違いだったんですね。今の若い人たちによく聞かれるんですがね、「どういう風に事を進めますか」と。やっぱりね、「旗行列するな」って。今日戦争に勝っても、その結果がどうなるかっていうことをもう少し冷静に見破る能力を養うべきだと思いますね。そして見破れば旗行列はしない。そう言いますね。

~~~~~

―「私の戦後六十年 だからこそあなたに伝えたい言葉」。今日は評論家の加藤周一さんにご自宅があります東京世田谷でお話しを伺っております。加藤さんは精力的に高校生などと対話をしてらっしゃいますが、高校生たちからくる質問はどういうものが多いですか?

間接的にも直接的にも言われますが、「我々には責任がない」というやつですね。私の答えは「その通り」。「君には責任がない」と。十五年戦争の責任はないし、南京虐殺を認めても今の大学生、高校生にその責任はないということは認めるわけですね。しかし責任がないっていうのは関係がないっていうわけじゃない。責任がないっていってもそれは直接的な責任がないっていうわけであって。たとえば中国における非常にたくさんの人の人命の破壊とか、そういう現象がなぜ起こったかと言うと非常に複雑な要因があるんですよ。しかしその要因の一部は無くなった、変わった、だから今はない。だからあなた方には確かに関係がないかもしれない。でも一部は今でもある。それは関係がある。それは識別しなきゃならない。どういう理由は今でも生きていてどういう理由は無くなっているかを区別しなきゃならない。もしも今でもある理由があればそれと戦わなきゃならない。それは義務でね、もし戦わなければ前の戦争の責任が続いてるっていうことになる。だから直接戦場での戦争行為に責任がないけれども、戦争というは武器を持って戦場に行く人だけでは決してできない。その人たちを支えるイデオロギー、価値観が背後にあるから、それに支えられてるからできるんです。故郷を守るとか、祖国は神の国だからとかいろいろありますね。

でそれを検討するには第一にまず歴史だ。歴史を学べ。歴史はは過去のことだから私たちには関係がないというのは粗雑な考え方で、関係あるかないかを調べるのが歴史学だ。たとえばなんだけど、南京虐殺の背景のひとつはね、人種差別かもしれない。そうしたらあなたたちの問題は今その人種差別は生きてるか生きてないかの問題だ。もし生きてるのに黙ってそこに座ってるのであれば関係のないことで座ってるんじゃなくて、関係大ありなことに対して黙ってる。つまり消極的に支持してることになるので結果的に全責任がそこにかかってくることになる。そんなに簡単に逃れられない。「関係ありません」じゃない。関係があるから、どんな関係があるかをはっきりさせなきゃならない。それには勉強する必要がある。

しかし人種差別は一例であってね、それだけじゃないと思いますね。別の見方をすれば戦争は政府とか将軍とかあるいは大学のある種の教授とか、要するに上のほうの偉いひとが決めることでしょと。しかしお偉いさんが決めただけじゃ戦争にはならないんでね、そこを庶民が支持するから戦争になる。そうしない庶民がどういう考え、どういう態度から生まれてくるかを検討しなきゃいけない。戦争の枠はなぜ成り立つのか。誰がそれを作って、だれがそれを支持するのか。それは支持する側の検討が必要になると思うんです。だから「することがない」じゃない。「我々に関係がない」じゃない。関係は大ありだと思いますね。

政府が言うことを支持するというときに、政府はどこの国でもしばしば嘘を吐くんですね。そういうことを念頭に置くべきなんですよ。戦争に関して政府が言うことを、支持する前にそういうことを検討すべきなんです。嘘か本当かね。まずそのための目を養う必要がありますし。必要があれば英語を学んで、英語の新聞を読んだりして。だから英語を学ぶ目的は、買い物に行ったときに流暢な英語で買い物をするためじゃないの。そうじゃなくて日本語で書いてないことがあったときにそれを暴くためには英語の文献が必要な時があるから。それを読むために英語を習わなくちゃ困ると思うんですね。

戦争っていうのは嘘の塊なんですよ。これはもう今まであまり嘘を吐かなかった政府でも嘘を吐くんですね。例はいくらでもありますが、日本で言うならば大本営の発表ですね。開戦になると「敵艦をいくつ撃沈して大勝利だ」って言って軍艦マーチをやってね、ニュースを流すわけですよ。でも嘘なわけですよね。だからそれを聞いてても戦況が分からないわけですよ。負けてる戦争を勝った勝ったと報道するわけですから。それは日本だけではなくて、それほど極端な嘘ではなくてでもね、たとえば連合軍がノルマンディーに上陸するでしょ。記念日があるくらい有名な出来事ですね。司令官はアイゼンハワーですよね。上陸作戦は成功するわけですけども、しかしね、その、『ヘラルド・トリビューン』が第一面の見出しに「ノルマンディー上陸成功」というのが載るわけですよ。しかし死傷者の数は中の記事を読むと書いてあるのね。やっぱり本当はもっと多かった。それはアメリカの練達のジャーナリストから聞いたんだけどね。やっぱりね、それはちょっと小さく書いてたと。ちょっとした嘘ですよね。味方の損害を小さく書いて。本当にはなかなか書かないですよ。

―加藤さんはそういう嘘かどうかを見破る知識というか、癖というか、習慣というか、そういうのはどうやったら若い人は身につくんでしょうか。

それは訓練しなきゃ本当はうまくならない。医者だって病気を治したいという願望と、治るか治らないかというのはまったくの別問題ですよね。つまり治したいという願望に影響されないでこれは治るか治らないかということを考える能力を発展させなきゃしょうがない。戦争でも同じです。客観的に自分の国のいいところも悪いところも見なきゃならない。客観的に過去の事実をはっきり見ることが必要だと思うんですよね。ドイツ人がナチの犯罪について認めたように、日本は辛くても日本陸軍が中国でやったことを認めるべきだと思うな。それが今の日本がどこまで変わったかということを求めているわけですね。その証拠は十分に出ているのかどうか、それは現在の問題だと。歴史意識は大事。

―今の問題であり、これから将来に向かっても日本という国が戦争を起こさないんだということを周りの人は保障がほしいんですよね、きっと。

そうです。事実、日本は例外的だった。六十年間一度も大規模に、正式に戦闘に参加しないで、だれも日本人が自衛隊を含めて死ななかったし、また自衛隊の発砲でほかの国の人を殺していないんです。つまり誰も殺してないし誰も殺されてない。そういう国は非常に稀。そういう意味で戦争は本来は一番核心の部分は殺し合いですから、殺し合いには手助けまでで直接は参加しなかった、それは九条のお陰ですよ。できなかったことを幸いにしてと考える人と、それを不幸にしてできなかったと考える人がまあ二通りあるわけだけども、私も今どちらか正しいかという議論に立ち入るよりも私が言いたいのは、それはよかったと考える人たちはアジアの近隣諸国からまた戦争をやるかもしれないという疑いをかけられることはなく先に進めると思うんですよ。しかし不幸にして日本人は戦いに参加できなかったという考え方の人は、もし上手くやればもう一遍戦争ができるようにするでしょ。それをしたら日本人は絶対にもう一度武器をとってくることはないという保証はどこにあるんだと、彼らが疑うのは仕方がないと、それを覚悟しなきゃならない。覚悟をしないでそういう風に考える人は不用意だと思うんです。そう考える以上は覚悟しなきゃならないのは、その代わり近隣諸国の人たちが日本人がもういっぺん動くかもしれないという疑いを持つことは避けられない。それを覚悟しなきゃならない。必ずしもそうなるとは限りませんよ。だから日本人がもう一度戦争するとは言えないけれど、ただ周りの国の人たちがそういう可能性を想定するのは仕方がないと思いますね。

―先ほど若い人たちも責任はないかもしれないけど関係がないんじゃないだよとおっしゃいましたが、今の若い世代に加藤さんから何かメッセージありませんでしょうか。

そうですね。前の世代から渡された、近代日本の日本人全体の共同責任ってものがあるんでね。それはその中に持続している面がたくさんあって、そんなに戦前と戦後で全く切れてるんじゃない。その切れたと思うことはまず第一に錯覚ですね。その錯覚と幻想を破ってね、現実を直視するべきだと。それは歴史を学ぶということなんで。不幸を生み出した条件が、過去に存在した条件の中で、今もある条件がたくさんあるんですね。それを段々に潰していくよりしょうがないですね。そういうことを具体的に行っていくことが非常に必要なことだと思いますね。そうでなければ本当の友好関係は作れない。ただ、日本の連続性をわたしは弁護しないし、だから周りの国が認めてくれというわけでもなくて、そういう弁解はしませんがね、ただ日本国が戦後に移っていくときね、占領下でしょ。で占領下でもっていきなりね、同時に冷戦下なんですよ。そして米国の占領政策は占領したときにもあれだけ犠牲を払ってやった戦争ですから日本ともう一回戦争をしたくないと、だから武装解除、そして戦争能力のはく奪、この二点は徹底してるわけですね、この憲法は。

日本人も戦争が嫌になってたからそれを受け入れたと思います。でも日本人が喜んで受け入れたかそうでないかは別にして、ただ客観的にあれは占領軍にとって日本の武装解除を進めるためのものですよね。ただそこに冷戦が被ったために急に占領政策が変わるわけですよ。で日本の武装解除が第一とか国家神道的イデオロギーに関して急に寛大になるわけ。高級官僚を巣鴨で解放するのはそういうこと。そういう解放をして、日本の経済を早く建て直して、冷戦で対ソビエト包囲網の一環として日本をもういっぺん再現すると。武装解除のむしろ逆なわけだから。警察予備隊も日本側が求めたんではなく、アメリカ側が強制したんですね。それに日本人は乗った。対日理事会の中で日本の戦争責任をもっと厳しく追及する予定を考えるのがソ連にありましたし中国にありましたしオーストラリアにありましたし、色んなところにあったんですよ。それは米国が全力を上げて抑えて、理事会を引っ張って、対日政策を今の線にやったわけ。その中では日本の自由度はある程度ありますよ。しかし占領下ですからね、占領軍が方針を変えたらしょうがないわけですよ。それが妙に連続性が強くなりすぎた、だからすべての責任があいまいになっちゃった。

―最後に21世紀に生きる若い人たちに、「ここから始めたらどうだ」「ここが突破口で平和な国を作るためにはこれが大事だ」ということを一言お願いします。

まあ、これだけの難しい時代を通り過ぎてきた経験っていうものから何も学ばないのはもったいない話だよね。学ぶとすれば個人の精神の独立だな。

―個人の精神の独立。

だから人の言うこと。大勢がどっちに並んでるかっていうことを見てね、いつもその大勢に順応するんじゃなくて、自分の考えを個々に歴史に関して歴史的事実を突き合わせて自分で考える。過去のことに限らず将来の生き方でも現在の状態でも、人の言うことじゃなくて、先生がこういったからとかじゃなくてね、ましてや加藤周一がこう言ったからって絶対に信じないで。それは全部間違っているかもしれない。自分で検討したり拒否したりできるようになることだな。明治維新のころね、福沢諭吉が「一身独立して一国独立す」って言ったんですね。だから人が言ったことを、官僚が、将軍が、政府が言ったことに「はいはい」とただ信じてるんじゃなくて、独立して検討して拒否することは拒否する、受け入れるものは受け入れる、その精神の独立が大事ですよね。それは口に出して言える場合と言えない場合、色んな状況がありますしそれもまた社会によって違うと思いますが、ですが考えてないことは言えないからね。まず第一に独立の考えを持たなければ独立の言葉は出てこないわけですから。まず精神が独立すること。そういう個人が出てこない限り一国の独立ってこともないでしょう。結局属国に終わるということだと思います。属国に終わりたくなければ個人がね、人の言うことだからって顔色を窺ってなくてね、自分の考えをはっきりと持つこと。それとできればそれを言うこと。なぜなら使わない自由はないのと同じ。

(終)




南京大虐殺資料の「ユネスコ世界記憶遺産」登録批判に見る、安倍自民党の極右体質 Registration of Nanjing Massacre Documents with the UNESCO Memory of the World - Japanese politicians' criticism reveals their far right-wing nature

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2016年になりました。今年もよろしくお願いします。年始初の投稿はこのブログでもお馴染みの成澤宗男氏の書き下ろしです。南京大虐殺は、広島、長崎の原爆投下や、ナチスのホロコーストなどと並んで私たちが永遠に記憶していかなければいけない、人類史上最悪の大虐殺の一つです。日本の政治家や右翼がいくら否定しても世界は覚えている。世界遺産への登録は当然のことです。南京大虐殺は1937年12月13日の南京城陥落の日から6週間ぐらいが一番酷かったと言われています。ということは、翌年1938年の1月末までは犯罪が集中する日々が続いていたということです。12月に記憶する日を設けるだけでなく、翌年になっても記憶しなければいけない。きたる1月27日は、国際ホロコースト記憶デイでもあります。新年、無念と屈辱の中で殺されていった無数の人たちのことを記憶し、人種差別や戦争をなくしていく決意を新たにしたいと思います。@PeacePhilosophy 


南京大虐殺資料の「ユネスコ世界記憶遺産」登録批判に見る、安倍自民党の極右体質

―日本が目論む戦略的対外発信力」とは何なのか―

                  成澤宗男(ジャーナリスト)

序章
この年の10月から11月にかけて、日本政府・外務省や自民党、右派メディアが一斉に、中国による南京大虐殺関連資料のユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界記憶遺産登録に対して猛烈な抗議の声を上げた。だが、これがどれだけ異常極まる事態であったか、未だに多くの日本人たちが気付いている形跡は乏しい。おそらく近年、日本がこれほどまでに理性と道義を喪失している実態を雄弁に示したケースは稀だろう。

第1章 「30万人」が問題なのか
最初に政府の側から騒ぎ立てたのが、官房長官の菅義偉であった。菅は1012日に放映されたBSフジ番組で、この登録に対し、拠出金停止もほのめかして「事実をめぐり意見が分かれているのに、一方的に中国側の意向に基づいてユネスコが指定するのはおかしい」と批判。翌13日の記者会見では、中国側の登録が「政治利用」で、ユネスコも「一方的に決めて政治問題にすべきではない」と批判。さらに、中国がユネスコに提出した資料を「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」としながら、一方で「(南京で)非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と、「(中国側が主張しているとする30万人の犠牲者数について)政府として具体的な数の断定は困難だ」と発言した。
この記者会見で、菅が「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と述べる一方で、「事実をめぐり意見が分かれている」というのは奇異に感じる。では、中国側の「30万人の犠牲者数」という主張が問題なのだろうか。外務省の外務報道官の川村泰久は、「犠牲者数三十万人以上という中国の主張が既成事実となり『負の歴史』の宣伝に利用されかねない」(『東京新聞』1011日付)と述べたといいうからそうなのだろうが、これも実におかしな理屈だ。
2010131日、「日中有識者による歴史共同研究」の成果である「報告書」が発表された。この「共同研究」は外務省のHPによると「20054月の日中外相会談において、町村外務大臣(当時)より日中歴史共同研究を提案、翌5月の日中外相会談において、詳細は事務当局間で議論していくことで一致」したというから、「報告書」は半ば日本政府の公式見解と見なされて良いだろう。そこでは南京大虐殺について、以下のような記述がある。
「日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上……、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」――。
 すると日本側は、「20 万人を上限」とする見解を示していたことになる。繰り返すように「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と認めたのであれば、「中国側が主張する30万人の犠牲者数」との違いは10万人になる。日本政府・外務省が、自国が認めた「20 万人を上限」とする数字と10万人違っていたことが、ユネスコへの拠出金停止をほのめかすまでに菅が憤るような理由になるのか。
 しかも、「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」にもかかわらず、犠牲者数が仮に「4万人、2万人」であったら、前出の川村は「負の歴史」ではないと考えているのか。中国側が宣伝しようがしまいが、「2万人」もの非戦闘員を殺害したらそれは大変な虐殺行為なのであって、日本人自身が誰よりも真っ先に「負の歴史」として刻むべきだろう。

第2章 「政治利用」という批判の「政治」性
 この程度の理屈すら分からなそうな男が「外務報道官」というから空恐ろしくなるが、そもそも中国側の資料は、「30万人」という犠牲者数を前面に出しているのではない。中国は2014年にも南京大虐殺関連資料を世界記憶遺産に登録申請しているが、その内容(英文)はユネスコのHPに掲載してあるから、菅の「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」などという批判は、まったくのデマに過ぎない。HPに掲載された「Documents of Nanjing Massacre」の「Summary」(要約)では、1948114日に下された東京裁判判決に登場する「後になされた評価では、日本軍占領期の最初の6週間に南京やその近郊で殺害された市民や捕虜の全体数は20万人を超える」との一文を、そのまま引用しているだけだ。しかも、「Comparative criteria」(比較の基準)の「People」では、これと同じ表現で「20万人以上」という数字が引用されているが、「少なくとも30万人」という表現も、連合国軍がBC級裁判の一環として設置した南京戦犯裁判軍事法廷の判決の引用という形式を取っている。
 「日中有識者による歴史共同研究」の「報告書」も同様だが、中国側が「三十万人以上」という数字の「主張」にこだわっているのでは毛頭ない。当然だろう。「20 万人を上限」にしようが「少なくとも30万人」だろうが、その歴史上特筆すべき残虐性は何ら変わるものではないからだ。にもかかわらず、自国が「20 万人を上限」とする評価もあり得ると認めながら、「犠牲者数三十万人以上という中国の主張」などという話を捏造し、しかもその数字が「既成事実」になるとして問題視しているのが、この国の主張なのだ。それがどれだけ事実に反しているか、外務当局は知るべきだろう。
 そもそも「政治利用」だとか「政治問題」などと口にすること自体、自身の「政治」性を物語っていよう。ユネスコは1979年、ポーランドの旧アウシュビッツ強制収容所を世界遺産に登録したが、当時のドイツ連邦共和国が「政治」云々と騒ぎ立てただろうか。誰が申請しようが、南京大虐殺関連資料が世界記憶遺産に登録されるのは、南京大虐殺というその空前の「負の歴史」からして何ら不自然ではない。にもかかわらず「政治利用」などという恨みがましい用語が出るのは、それを吐いた者たち自身が、歴史の真実に対して過度に「政治」的に振る舞っているからに他ならない。
 思い起こせば、戦後の歴史教科書は紆余曲折があったが、少なくとも中学校では1984年版、高校日本史では1985年版、小学校では1992年版から全教科書に「南京大虐殺」の記述が存在した。しかし、次のような経過は、今回のユネスコに対する批判を考える上で忘れてはならないだろう。
「自民党は九三年八月に『歴史・検討委員会』を設置し、次のような結論をまとめて九五年八月一五日に発表した。①日本の戦争は侵略戦争ではない、②『慰安婦』や南京事件などの加害は事実ではない、③これらのことを教科書から削除するために新しい教科書のたたかいが必要、④前述①②のような歴史認識を国民に定着させるために、学者を中心とした国民運動を展開する。
これを受けて、九六年夏から、中学校教科書を『自虐・暗黒史観教科書』と攻撃し、教科書から『慰安婦』や南京事件記述を削除せよ、という激しい攻撃がはじまった」(注1)
 よく知られているように、安倍晋三は極右・歴史修正主義者の牙城であるこの「歴史・検討委員会」に委員として加わり、続いて一連のこうした「攻撃」の先頭に立った「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(現日本の前途と歴史教育を考える議員の会)の事務局長を務めた。菅義偉も、後者に所属している。しかも安倍は、南京大虐殺を「捏造」とする一派に与している事実を隠してはいない。 
 名古屋市長の河村たかしが2012220「一般市民(へ)のいわゆる虐殺行為はなかった」「南京事件はなかったのではないか」と述べて大問題になった際、「南京の真実国民運動」(代表=渡部昇一)が「広告主催者」となり、同年の『産経新聞』83日付と924日付に、「私たちは、河村たかし名古屋市長の『南京』発言を支持します!」という意見広告を掲載した。そこで安倍は、「元内閣総理大臣・衆議院議員・自民党」の肩書きで、「呼びかけ人」の筆頭に名を連ねている。つまり河村と同様に、南京大虐殺の否定論者に他ならない。

第3章 啞然とする自民党の歴史認識
安倍政権が今回、これほど「政治」な動きをしたのは、もともとこの一派の大半は南京大虐殺が「事実ではない」と考えているか、あるいは「事実であって欲しくない」と強く願望しているからこそなのだ。こうした安倍のようなメンタリティの同類が、自民党の「外交・経済連携本部国際情報検討委員会」の委員長である衆議院議員の原田義昭だろう。
 原田は102日、同「検討委員会」の会合後、記者団に「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」(『朝日新聞』電子版102日付)と語ったという。
これこそが、安倍政権と自民党の本音に他ならない。この集団によれば、対外的には政府が南京大虐殺の事実を「否定できない」と表明していながらも、あくまでこの事件は本来「事実ではない」か「事実であって欲しくない」ものであるから、この問題で何か起きると、「今や否定しようとしている時」だと主観的に思い込みたがる。だからこそ、中国のユネスコ登録申請に過度に「政治的」に反応するのであって、それ自体、安倍政権・自民党の歴史修正主義という「政治」的本質の裏返しといえよう。
 では、原田自身、南京大虐殺について、どのような見解を有しているのか。それを示しているのが、1022日に放送されたTBSラジオの荻上チキのインタビュー番組における発言だ。多少引用が長くなるが、その以下の書き起こし(注2)を読むと、驚くべきことに原田がおよそ南京大虐殺に関する初歩的知識すらないどころか、中国の世界遺産登録の経過すらろくに把握していない事実がうかがえる。
荻上チキのインタビューを受ける原田義昭。
全文書き起こしはここ

「荻上 そもそも今回登録された資料というのはどういうものなのでしょうか?
原田 これはね、南京事件のね、中国側が、みた、例えば南京のときに、30万の人間がね、虐殺されたと。こういうようなことも含めた、あることないことのね、データだと。まずいうならね、そもそも何を登録するかについても一切公表しない。終わってからも公表していないんですよ。事前はね、それを見せないっていっても公表しない」

 論ずるにも値しない虚言だが、ユネスコのHPを検証する努力すらもしていないのは、次のやり取りでも如実に示されている。

「荻上 個別の、今回の中国が出した資料については確認されていないわけですね?
原田 していません。申し上げたました通りにね、それを事前に、そこがね、みなさん、あなたたちの関心からすると、そこを出しなさいと言ってきたらしいんですよ。
荻上 そちらのほうはわかったんですけど、例えば、個別の何があったのか評価はできない。一方で、今回出した資料がどういったものかが確認できない。となればどうみても捏造だというのは、何に対して憤っているのかというのが、おそらくリスナーにわかりづらいと思うんですね。
 原田 いやいや、しかしね、そもそもですよ。やっぱりね、情報公開してですよ、その上でみんなの評価を受けるというならわかるんだけどね。そもそも隠すこと自体がね、聞きたい側からするとね、見たい側からすると、隠すこと自体がおかしいじゃないか、と。いまあれでしょ、物事の個人情報とかなんとかだってね、やっぱりね、隠すことに意味がある。ないしは情報公開出来ない立場からするとね、なにかそこに隠さないといけない理由があるじゃないかと。相手方からすると、そこにこそ聞きたいんだと」

 いったい、原田は何を言いたいのか。「そこを出しなさいと言ってきたらしいんですよ」とは、まったく意味不明だが、「隠す」という語を連発する前に、そもそも自分の発言には責任を持つという意識すらあるのか疑わしい。繰り返すようにユネスコも中国側も、HPに資料を公開しているのだ。このいい加減さは、虐殺事件そのものの話に入っていくと、顕著になる。

「荻上 例えば外務省がウェブサイトに出しているような、人数の、大小は問わず、わからないけれども、そうした殺害行為があったことは事実だと認めていることについてはいかがでしょうか?
原田 表現にもよりますけどね、それこそね、今の時代だってですよ、言っちゃ悪いけど、いろいろな事件、殺害が行われていますからね。しかし戦中の一番難しい時期ですから、混乱したときだから、そりゃなかったとはいいませんけども。
荻上 その混乱というのは、例えば全体が混乱している中で、個々人の兵士が勝手にそうした行為を行ったことを混乱と表現しているということですか?
原田 私はそういう風に理解していただいていいと思いますよ。軍として日本の国軍が組織的に虐殺する必要性もなかったわけですし。
荻上 その場合の組織的というのは、例えば命令書があるないことを組織的というのか、それとも現地の部隊が、例えば捕虜の方々を縛っている状態で銃で殺すようなことも組織的というのか、どのあたりのニュアンスを示しているのですか?
原田 そのへんも私もね、いま質問のように、厳格にはいま申し上げませんけどもね。多少の混乱が南京があったということはね、あったかと思いますよ。
荻上 部隊による捕虜の殺害というのはどうでしょうか?
原田 そりゃ、個別には私はコメントできません。
荻上 だけれども全体としては捏造だと……。
原田 そりゃそうそう。
荻上 感じるわけですね。
原田 そう。それは間違いなく捏造だと思っています」

 第4章 誰が「名誉」を汚しているか
一体、「委員長」がこんな程度のやり取りしかできない「外交・経済連携本部国際情報検討委員会」とは何なのか。初歩的な知識さえないから「そりゃなかったとはいいませんけども」などと矛盾したことを平気で言い、具体的な質問を突っ込まれると「個別には私はコメントできません」と逃げるのだ。「個別」も何も、「捕虜の殺害」という南京大虐殺の基本中の基本の事実認識さえまともに答えられないで、どうして「間違いなく捏造だ」と言い切れるのだろうか。原田の支離滅裂ぶりは、質問されるたびにさらにひどくなっていく。

「荻上 例えば当時の人口について、(注=原田が)10数万人しかいなかったのに、という話がありました。これに関して、当時の南京市の人口統計であるとか、あるいはラーベなどの、個人が書いた推計などについて、触れた機会はありますか?
原田 僕はあのデータも随分読んでいます。
荻上 どういったデータでしょう?
原田 いやいや具体的な名前を言っているわけじゃないけども、まず南京の、そのときの、あれだけのメディアだのマスコミだの入っているにもかかわらず、南京についてですよ、事件があった直後のあれについて、まったく国際的な情報が入っていないということ。
荻上 つまり虐殺と言われるような……。
原田 そんなことは今だけですよ。それは、全市民を越えるくらいのあれはですよ、やるなんてことは、大新聞も書くでしょうよ。
荻上 整理すると、当時の人口を越えたような虐殺人数になっているじゃないかというのがひとつと、もしそういった行為があったならば海外メディアは当時報じていただろう、と。日本のメディアも報じていただろうということになるわけですね。
原田 もちろんそう。
荻上 これについて二つ事実確認をしたいのですが、当時10数万人というのは、あくまで南京の城の中の、なおかつ安全区と呼ばれるところの人口であって、全体としては南京市、南京城周辺の人口としては100万人前後。で、事件の前にどれだけ減ったのかという議論がされているのが一点あります。それから報道に関しては、国内だけではなくて、ニューヨークタイムズやワシントンポストなど、当時、南京でこういった事件があった。こういったようなケースがあったということ自体は報じられているんですけども、これに対してはどうお感じになっていますか?
原田 いや、私はね、ちょっと服部さんね。
荻上 私、荻上です。
原田 え?
荻上 こちらはスタッフの名刺で。
原田 ああ、そうかそうか。
荻上 私、荻上と申します。
原田 荻上さんね、私はね、今日は南京のそこまでのあれはちょっとね、いろいろ準備しておかなかったからね、あれです。だけども結論から言うとね、少なくともそういう議論があるんですよ。いいですか? そういう議論があるにもかかわらず、その議論がありながらね、そういう事実をね、ここに、ユネスコの記憶遺産に刻印しようとすること自体がね、もう基本的に問題なのであって。
荻上 それはプロセスの問題ということですね?
原田 いやいや、プロセスだってね、まずね。中身に入る前にね、プロセスでね、明らかに間違っているんだから。内容に入る前にね、それがおかしいじゃないか。それにね、プロセスに反論があるならやってみなさいよ、と。その上でね、学者も含めて、政治家も含めて、はっきり議論してね、どちらが正しいか、どちらが誤っているのかをね、議論させればいいだけのことなんだよ。それがね、荻上さんね、プロセスだからって、プロセスのほうが大事なんですよ」

それまで「捏造」という語を盛んに連発しながら、個別論議になると、急に「いろいろ準備しておかなかったからね」と逃げる。聞かれたのは、「準備」以前の基本的知識に関する問題であるにもかかわらずだ。おまけに中国側の提示した資料すら何も目も通さずに非難するという、議論の「プロセス」を本人が最初から欠いているのに、今度は「中身に入る前にね、プロセスでね」と言い出す。原田はこのインタビューで、自身の主張を裏付けるような文献も資料も、一切具体名を提示できなかったが、さすがにこれほどの醜態をさらしたために内心、少しは惨めさを感じたのだろうか、「荻上さんね、それはね、やっぱりね、私どもの名誉を、もう少しね、守る立場から勉強してもらわないとダメですよ」などと捨て台詞のような発言を残している。だが自分の無知を棚に上げている原田のような言説こそ、日本の「名誉」を毀損しているのではないのか。
 
 第5章 外務省の「情報発信」とは?
この「外交・経済連携本部国際情報検討委員会」は143月に設置されているが、同年6月に「攻めの情報戦略を!!」と題した「中間とりまとめ」を、安倍や菅らに提出している。以下は、その「趣旨」だ。
「国際環境が一段と厳しさを増す中、日本の内政外交に対し中国、韓国などの反日宣伝とも思える情報が溢れている(例、慰安婦像、日本海呼称問題、靖国、安重根像など)。二国間(バイ、ローカル)の案件でも米国を含む第三国際社会に持ち出すことにより国際的に転化し、ひいては我が国の国益を毀損することにもなる。
 我が国は外交では『広報活動』の充実に努めてきたが、国として主権や国益を守り抜くためには、単に『中立』、『防御』の姿勢から積極的に攻める『情報発信』や攻める『情報戦略』に点ずることが必要である」――。
 すると原田は翌年、自ら「情報発信」するために、TBSのラジオ番組に出演したのだろうか。南京大虐殺も「反日宣伝」に違いないからかもしれないが、繰り返すように、もし何かが「国益を毀損」しているとしたら、それは基本的知識も皆無なのに、「捏造」とまくし立てるだけの原田のような国会議員の「委員長」が存在しているということ自体が元凶なのではないか。
 同じ自民党衆議院議員の稲田朋美(注3)は1110日の衆議院予算委員会で、「中国の南京事件に関する資料が記憶遺産になったことは非常に遺憾であります。まず、何が登録されるか全く明らかにされていません。いまだに明らかにされていません。その資料が真実かどうかも明らかにされず」云々と述べているが、虚言癖は極右の本質的属性なのだろうか。こういう手合いらが「与党」でいられることに、つくづくおぞましさを感じざるを得ない。
 さらに、自民党に輪をかけて、外務省も今回、信じられない対応をした。外務省のHPには「歴史問題Q&A」というコーナーがあり、「問6南京大虐殺に対して、日本政府はどのように考えていますか」という問いの回答として、「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています」と明記している。
 ところが外務省は、捕虜虐殺を考慮しないなど問題はあるが、まがりなりにも南京大虐殺について「否定できない」とする一方で、何と歴史学者でもない南京大虐殺の否定論者である明星大学教授の高橋史朗を、「バランスの取れた研究者だ」(『毎日新聞』11月6日付朝刊)と称して登用し、ユネスコ世界記憶国際諮問委員会に提出した中国側への反論の「意見書」を作成させたのだ。
 1128日、東京都内で「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」なる団体の集会が開かれ、「参加者からは、虐殺の証拠が存在しないことを政府が対外発信するよう求める声が相次いだ。同会議議長の渡部昇一上智大名誉教授は『組織的な虐殺はあり得なかったと断言できる』と指摘」(『産経』電子版1128日付)したという。
また「国民会議」は109日、安倍や菅らに、「今回の登録承認は、歴史的事実に基づいておらず、中国の政治的宣伝に乗せられた決定である」とし、「このような政治宣伝に乗せられた国連教育科学文化機関(ユネスコ)に対し、約50億円にのぼる拠出金・分担金等を凍結・停止」するよう求めた「声明文及び要請状」を送っている。
そして高橋史朗は、こうした主張をする「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」の「呼びかけ人」の一人なのだ。どこをどう見たら、「バランスの取れた」などという評価が可能なのか。そういう虚言を弄する外務省は自身のHPの記述が高橋らの主張と矛盾するはずだが、いつから否定論に与するようになったのだろう。
 高橋は、自身が理事に収まっている極右の「シンクタンク」である「国家基本問題研究所」(理事長・櫻井よしこ)のHPに、「『南京』『慰安婦』の記憶遺産阻止へ何が必要か」と題し、「①日本軍の蛮行を写したとされる16枚の写真②虐殺犠牲者を米人牧師ジョン・マギーが撮影したとされる「マギー・フィルム」③2万人以上の強姦があったと主張する『中国人慰安婦』(オックスフォード大学出版)に引用されている中国人女性、程瑞芳の日記」等々、中国側が登録申請した南京大虐殺関連の資料5点の「批判」を試みている。
 なぜか外務省は高橋の「意見書」を公開していないが、前出の『毎日』の記事によれば、「意見書」と、この「『南京』『慰安婦』の記憶遺産阻止へ何が必要か」は内容が重なるようだ。そして奇妙なのは、そこでは中国側の資料の多くを含む東京裁判と南京軍事法廷の戦犯裁判関連資料について、いずれも一切言及がない点だ。

 終章 
それはそうだろう。ポツダム宣言に則った東京裁判、及び計47BC級戦犯裁判の一つである南京軍事法廷を、日本政府や外務省が今さら否定できるはずもない。195198日に日本が調印したサンフランシスコ講和条約の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と明記されているからだ。
そして、それらの判決文も、『日中戦争南京大残虐事件資料集第1極東国際軍事裁判関係州量編』(洞富雄編。青木書店)や、中文の『南京大屠殺史料集』に収められている。今さら菅や極右たちが「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」などと主張するのは実に奇妙だ。それこそ単なる蒸し返しに過ぎず、そんなことをして何の意味があるのか。本音は南京大虐殺の否定論だが、本音を直に言えないため、本質から外れた論議に時間を費やしてウサを晴らしているのだろう。
ちなみにそれ以外の中国側が登録申請した資料の『南京事件資料集①アメリカ関係資料編』(南京事件調査研究会編訳。青木書店)に収められており、1510月の段階でいくらでも「検証」が可能なのだ。
 外務省は148月に発表した翌年度の予算概算要求の重点項目で、筆頭に「戦略的対外発信」を掲げた。内容は、「日本の「正しい姿」の発信(領土保全,歴史認識を含む)、日本の多様な魅力の更なる発信(海外の広報文化外交拠点の創設を含む)、親日派・知日派の育成,在外公館長・在外公館による発信の更なる強化」というもの。何やら、自民党の「外交・経済連携本部国際情報検討委員会」の「中間とりまとめ」と似た表現だが、そんな大言壮語をする前に、極右の門外漢に「意見書」を作成させるような「政治的」動きをしながら、中国側のユネスコへの資料登録を「『負の歴史』の宣伝に利用されかねない」などと、見当外れの批判をするような姿勢を改める方が先決だろう。
また、『産経』の電子版1120日付に、「対中韓『歴史戦』に備え 外務省職員の定員、大幅増を 自民党外交再生戦略会議の決議案判明」という見出しの記事が掲載された。それによると、「自民党外交再生戦略会議(議長・高村正彦副総裁)がまとめた決議案の全容が19日、判明した。国際テロリズムの脅威や慰安婦問題など『歴史戦』に対抗できる強い外交基盤を構築するよう求めている」、「決議案は、伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開催される来年を「わが国のプレゼンスを向上させ、『地球儀を俯瞰(ふかん)する外交』を一層強力に推進する好機」と説明。靖国神社参拝や慰安婦問題で中国や韓国が仕掛ける『歴史戦』をにらみ、戦略的対外発信力を強めることを求めている」――という。
 自民党は、「歴史戦」などというおどろおどろしい用語を使ってはいないはずだが、それでもこの記事通りなら、政府と与党は「戦略的対外発信力」と称して、歴史修正主義を世界に唱えるつもりのようだ。それを『産経』あたりが「歴史戦」と煽るのは目に見えているが、この国は今後も米国に媚びへつらう一方、隣国との永続的和解という課題を投げ捨て、安倍一派流の恥知らずな過去の歴史に対する居直りと偽造に満ちた姿勢を強化させていくのだろうか。一連のユネスコをめぐる「騒動」は、それが杞憂に留まらない確実性を如実に示したように思える。

(注1)俵義文「教科書の戦争記述が変化した背景」『教科書から消される「戦争」』(金曜日刊)収録
(注2【全文起こし】自民党・国際情報検討委員会委員長・原田義昭衆議院議員インタビューURLhttp://www.tbsradio.jp/ss954/2015/10/post-313.html
(3)稲田については、次のようなニュースがある「自民党は11日、日清戦争から東京裁判、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策などを検証する安倍晋三総裁(首相)直属の新組織を立ち上げることを決めた。結党60年を迎える今月中に発足させ、トップには谷垣禎一幹事長が就く。稲田朋美政調会長が6月、東京裁判について『判決理由にある歴史認識はあまりにもずさん。日本人による検証が必要だ』などと設置を明言した。ただ、こうした動きは歴史認識を重視する中国や韓国だけでなく、戦勝国・米国の反発を招く恐れがあるため、穏健派の谷垣氏をトップにし、結論はまとめない勉強会形式にした模様だ」(『朝日新聞』電子版1112日)
 極右「日本会議」の「国会議員懇談会」顧問の谷垣が、「穏健派」なのか。いずれにせよ稲田のこうした試みは、要注意だろう。


成澤宗男(なるさわ・むねお)
1953年、新潟県生まれ。中央大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。政党機関紙記者を務めた後、パリでジャーナリスト活動。帰国後、衆議院議員政策担当秘書などを経て、現在、週刊金曜日編集部員。著書に、『オバマの危険』『9・11の謎』『続9・11の謎』(いずれも金曜日刊)等。

このブログにおける過去の成澤氏による寄稿はこちらをクリック

UNESCO関連ではこちらの投稿も重要。


Okinawa - Struggle Against Militarism (at Kwantlen Polytechnic University)

「慰安婦」問題、日本の「謝罪」が犯した過ちとは デイビッド・トルバート『ハフィントン・ポスト』寄稿和訳 David Tolbert: Japan's Apology to South Korea Shows What Public Apologies Should (Not) Do (Japanese translation)

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David Tolbert
 『ハフィントン・ポスト』に1月29日掲載された、「国際移行期正義センター」(ICTJ)代表のデイビッド・トルバート氏による寄稿は、昨年末12月28日発表された、「慰安婦」問題についての「日韓合意」の欠陥を明らかにし、あるべき謝罪と補償への教訓を提供する。
 この「移行期正義」という概念についてICTJのサイトでは「移行期正義とは、大規模な人権侵害の歴史を正していくため各国が実行してきている裁判による、または裁判にはよらない方策を指す。これらの方策は刑事訴追、真実和解委員会、補償計画、さまざまな種類の組織改革などが含まれる」と定義している。日本語でも専門書が出ているようだ。
 また、この文の最後の方で触れられる、日本が国際刑事裁判所の「被害者信託基金」に財政的貢献をしたという件だが、外務省のサイトに記述がある。これは2013年9月26日安倍首相が国連総会で「女性と人権」を強調した演説をする際に、この「被害者信託基金」に1億円の拠出をするとの報道がされ、日本軍「慰安婦」問題とその歴史を否定するような発言で批判されていた日本のイメージアップのために行ったのだろうと言われていた件である。トルバート氏はこの資金拠出を評価することで逆に日本に、「慰安婦」問題で正しい謝罪と補償をせよと重圧をかけているのだろう。


(前文、翻訳:乗松聡子 翻訳はアップ後微修正することがあります。)

原文は
Japan's Apology to South Korea Shows What Public Apologies Should (Not) Do

日本の韓国への謝罪は、公的謝罪が行うべきことと行うべきでないことを提示する
第二次世界大戦中の「慰安婦」に対して軍が犯した性的奴隷化に対する最近の日本から韓国への物議を醸した謝罪は、戦争中の犯罪や深刻な人権侵害についての重要な問題を提起した。このような大規模な人類に対する罪における謝罪の適切な役割とは何だろうか?謝罪というものが何を達成できるのか、そして生存者や被害者にとってそうではあってはならない謝罪とはどんなものなのか?
先日の日本の謝罪は、日本と韓国の間で交わされた地政学上の戦略的取引と見る人もおり、韓国における生存者46人と、戦争中日本に占領された他の国の被害者たちからも抗議を受ける結果になった。
ICTJ(国際移行期正義センター)が過去15年間50か国以上における被害者への補償に取り組んできた経験にもとづけば、多くの被害者にとって、謝罪以外の補償の形を伴わない謝罪は正義として成り立たないことがわかっている。賠償金といった実質的な補償も、意味のある形で責任を認めることなしにはその目的を達することはできない。

第二次世界大戦前と最中、日本帝国軍によってアジアの20万人と推定される女性たちが性奴隷となることを強いられた。日本は占領地全般において組織的に広大な「慰安所」ネットワークを築き、「慰安婦」が人身取引され、性奴隷として使われた。これらの「慰安婦」の多くは奴隷とされた時点でかろうじてティーンエイジャーという年齢で、今生存している少数の女性たちは高齢で数も減ってきている。
今まで日本政府のいろいろな高官たちがさまざま形で遺憾の念を表現し、「慰安婦」制度運営における日本軍関与を認めてきたが、直近のものを含めてどれもこれらの人権侵害に対する日本の国家としての責任を無条件に認めるものではなかった。
最近の「謝罪」の一環として、日本は生存している韓国の被害者に医療、介護といった援助をするための基金の設立に10億円を約束した。韓国はそのかわり、補償に対する要求を「不可逆的」に取り下げ、この件について一切の日本の批判をやめ、韓国人「慰安婦」被害者たちによって2011年ソウルの日本大使館前に建てられたを撤去するとの約束をした。
この合意は、「慰安所」(または売春宿)の制度を開始した国家責任を完全に認めるのではなく、韓国の女性たちを性奴隷に強いたことにおける「軍当局の関与」に対する「心からお詫びと反省の気持ち」を示しただけであった。被害者と支援者によれば、これは完全で意味のある謝罪には程遠い。これは性奴隷制度を創設して維持した日本の役割を認めていない。人権侵害に対する法的責任も認めていない。公的謝罪というものは「事実を認め責任を受け入れること」でなければいけないという国際人権規範における基準を満たしていない。
国際移行期正義センター(ICTJ)の最近の報告「言葉以上に:償いの形としての謝罪」で我々が解説しているのは、最も意味のある公的謝罪というものは、人権侵害に対する責任を明確に認め、生存者や被害者とその家族の継続する苦しみを認知するものであるということだ。
この報告が示すように、大規模で組織的な戦争犯罪や人権侵害への謝罪は、生存者や被害者とその家族に相談し、その謝罪の形式、内容、タイミングがその人たちにとって最も意味のあるものになるようにした上で行われるべきものである。
日韓の「慰安婦」生存者への謝罪の場合このようなものではなかった。日本の首相と韓国の大統領の間で交わされた合意に含まれなかったアジアの他地域すべての生存者にとってももちろん違った。この謝罪の試みは、被害者に助言を求めた結果ではなく、米国の勧めによって行われたようである。「慰安婦」被害者に正義をもたらすという動機よりも(そういう動機が少しでもあったとしたら)、日韓の緊張(領土問題や未解決の歴史問題をめぐるものを含む)緩和という必要性に動機づけられたものであった。
ICTJの報告書が強調するのは、謝罪というものは真相究明を終わらせたり被害者が真実を訴えることを抑圧したりするものであってはならない。謝罪とは、紛争に関連する犯罪や国家の名の下に行われた人権侵害に対する社会全体としての決着(reckoning)を促進しなければいけない。謝罪というものは説明責任の空間を開くものであって、閉じるものであってはならない。

当然ながら謝罪というものは、記念碑やモニュメントといった、人権侵害が忘れられないことを確実にするための対策ーーとりわけ被害者自身によって建てられたものである場合――を撤去したり価値を低めたりするために使ってはならない。
また謝罪というものは、同じ人権侵害の被害者間で差別するようなものであってはならない。まさに日本が中国、フィリピン、東ティモールなど他のアジア諸国の被害者への言及を怠ったことは、この謝罪が過去の過ちを誠実に認めるというよりも主に政治的便宜に動機づけられたものであるという見方を裏付ける。事実上被害者間での区別を行ったことで、この謝罪表示は公的謝罪の精神にも目的にもそぐうものではない。

最後に、謝罪というものは、本来それが伝え象徴するはずの「もう二度としません」という約束と矛盾する他の目的のための道具とされてはいけない。過去の犯罪への謝罪が現在の地域安全保障上の緊張を減らすことはまずない。それどころか緊張をエスカレートさせるかもしれない。これは謝罪の意義を損なうだけではなく、被害者たちの何十年にもわたる正義への要求の価値を低めることによってその謝罪を覆すようなものだ。

日本は、国家による疑いようのない責任の確認をともなう償い計画の一部として、占領中に行われた人権侵害に対する謝罪の最近の例から学ぶことができるのではないか。2013年英国政府は、英国のケニア植民支配に対する反植民地主義運動を支持したと疑われ拷問と虐待を受けたケニア人たちに対して謝罪した。英国は謝罪に加え、記念碑作成に対して資金を提供し、生存者たちに補償金を支払った。1991年、チリのパトリシオ・エイルウィン大統領は、ピノチェト独裁政権が犯した人権侵害に対して国家を代表して謝罪した。エイルウィン大統領は、これらの人権侵害行為に国が責任を持つことと、政府職員が強制的失踪、拷問、超法規的殺害を行ったことを明らかにした。大統領は謝罪に続き、議会に対し補償計画とそれを実行する組織を創設するための法案を提出した。その法案は成立し、現在も被害者への支援を提供し続けている。
日本政府は国際刑事裁判所を創設したローマ規程の、移行期正義の一要素としての補償促進において建設的な役割を果たした。2014年には日本政府はこの規程により補償メカニズムとして創設された「被害者信託基金」に重要な財政的貢献をした。日本はこの寄付金を「性的またはジェンダーにもとづく暴力の被害者に割り当てる」ようとの要望まで出したのである。言い換えればこのことは、政治的、外交的および安全保障上の課題が「慰安婦」被害者に対する謝罪への日本の拒絶と躊躇を特徴づけているにもかかわらず、日本は、戦争における性的およびジェンダーに基づく暴力に取り組む重要性だけでなく、被害者が補償を受ける必要性まで認識しているということを示している。
国連と各国政府は今こそ介入し、日本政府に対し、これだけ何年も時間が経った後、今こそ疑いようのない形で「慰安婦」被害者に過去の性奴隷犯罪に対する責任を認め、効果的な補償計画をともなう完全かつ意味のある謝罪を行うことを求めるべきである。

原文は
http://www.huffingtonpost.com/david-tolbert/japans-apology-to-south-k_b_9111566.html

デイビッド・トルバート氏のプロフィールは
http://www.huffingtonpost.com/david-tolbert/

この「移行期正義」という概念についてICTJのサイトでは「移行期正義とは、大規模な人権侵害の歴史を正していくため各国が実行してきている裁判による、または裁判にはよらない方策を指す。これらの方策は刑事訴追、真実和解委員会、補償計画、さまざまな種類の組織改革などが含まれる」と定義している。日本語でも専門書が出ているようだ。


「ミサイル」ではないものに対して「ミサイル」を配備した日本 Japan deployed missiles against North Korea's non-missile

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日本の人たちは日本語報道で繰り返される「北朝鮮による事実上の長距離弾道ミサイル発射」という言葉に騙されている。

これを「ミサイル」と呼ぶことのウソについては『アリの一言』ブログの「どうして「ミサイル」と断定できるのか!」を参照されたい。(同ブログの「『機能しないPAC3』を沖縄に配備する2つの狙い」も同時に参照。)

軍事に詳しい週刊金曜日の成澤宗男記者も、「弾頭に爆薬もなく、燃料注入に何日もかけ、人工衛星を打ち上げる飛翔体をミサイルと呼べません。意図的に、軍事的脅威のデマを煽っているだけ」と言っている。

成澤氏によると、「ある軍事評論家がTV出演の依頼を受け承諾したが、事前にこのこと(北朝鮮が打ち上げたものを『ミサイル』などとは呼べない)を指摘したら、急に出演をキャンセルされた」とのことだ。マスコミはとことん「北朝鮮がミサイルを発射した」というイメージ宣伝をしたいのだろう。

共同通信による解説図(2月9日)
2月8日の『琉球新報』(23面)で軍事評論家の前田哲男氏は「一度、大気圏を突き抜け再突入するのが弾道ミサイル」で、「軌道に乗って地球を回っていれば衛星だ」と言っている。

しかし2月9日の共同通信の報道では、今回北朝鮮は「再突入体」(「大気圏外にいったん打ち上げた弾頭が大気圏に再突入し、落下していく際の高熱や衝撃から守る部品」)の実験はしていないと確認されたということだ。

これを上記の報道では「ミサイル実用化へは道半ば」とか言っているが、再突入体の実験をしていないのなら猶更、この実験は「ミサイル」実験とは言えないのではないか??

これに対し日本政府、メディア、自治体「破壊措置命令」を出し、地対空ミサイル「PAC3」と海上配備型迎撃ミサイル「SM3」を搭載したイージス艦を配置したのだ。

ということは、日本は、「ミサイル」でないものに対して「ミサイル」を発射する体制を敷いたということだ。

天木直人氏が2月7日のメルマガで「迎撃したら日本の先制攻撃となり、北朝鮮との戦争を仕掛けることになる」と言ったように、日本は先制攻撃の準備をしていたのである。

そしてこれを機に日本は、韓国に配備計画が進んでいる最先端の迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」を日本にも配備しようとしている。2月8日の記者会見で菅官房長官が表明したが、導入検討はすでに昨年11月中谷防衛大臣によって初表明されている(『東京新聞』2月9日「菅氏、高高度防衛ミサイルの配備『検討』 費用膨大で防衛予算増も)。

安倍政権にとって今回の「打ち上げ」は、さらなる軍拡、軍事費増強を正当化し、日本市民、特に沖縄市民の心を恐怖感で操作し、離島の自衛隊増強、新たな米軍施設建設に対する市民の抵抗を封じるために最大限に利用できるものとなったのだ。

沖縄の友人の孫(小学生)は今回の騒ぎを見て、「北朝鮮とアベは組んでいるの?」と聞いたそうだ。

私たち大人も、政府とメディアの嘘を見破り、自分の頭で考え、問うことを止めてはならない。「北朝鮮」と聞くだけで思考停止する傾向を乗り越えなければいけない。

@PeacePhilosophy







A Letter to The Globe and Mail from Three Article 9 Advocate Groups in Canada 日本の軍国化を賛美する記事にカナダ三大都市の「9条の会」が反論

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Tomoe Otsuki's rebuttal on behalf of Article 9 groups in Montreal, Toronto, and Vancouver to the February 2 The Globe and Mail article "A resurgent Japan can ensure lasting peace in Asia" by Brahma Chellaney, professor of strategic studies of an Indian think-tank Centre for Policy Research, was printed in the "Letters to the Editor" section (A12) of the paper today. カナダのクオリティー・ペーパーとして知られる『グローブ・アンド・メール』紙が2月2日、インドのシンクタンクの研究者が「再起する日本はアジアの恒久平和を確実にする」という題で日本の安保法制制定や武器輸出解禁を賛美する記事を掲載したことに対し、カナダの3大都市の「9条の会」からの反論の投書が2月10日に掲載された。

http://www.theglobeandmail.com/opinion/letters/feb-10-battling-islamic-state-plus-other-letters-to-the-editor/article28680041/

Here is the entire letter. 


Japan’s pacifism
Brahma Chellaney advocates Japan’s recent departure from postwar pacifism as a precondition for peace in Asia (A Resurgent Japan Can Ensure Lasting Peace In Asia, Feb. 2). However, he fails to grasp the political conditions in Japan and neighbouring countries. Recent polls show that 75 per cent of the Japanese public are dissatisfied with the government ramming through legislation that would allow “self-defence forces” more active military roles outside Japan, and only 38 per cent support revision of the pacifist constitution.
With the constitutional pledge that renounces war (known as Article 9), the people of Japan have chosen to solve international disputes with diplomatic solutions. It is the people of Japan, not the United States, who decide how they defend their country and right to live in peace.
Tomoe Otsuki, Montreal (on behalf of Article 9 groups in Toronto, Montreal and Vancouver)

The Globe and Mail is Canada's national quality paper. 

掲載された投書の訳は以下。

ブラーマ・チェラニー氏は日本が最近戦後の平和主義から脱却したことをアジアの平和への条件であるとして擁護した(2月2日付記事「再起する日本はアジアの恒久平和を確実にする」)。しかし、チェラニー氏は日本とアジア隣国における政治的状況を把握していない。最近の世論調査によると、日本国外で自衛隊により大きな役割を許す法律を強行成立させた政府に対し日本市民の75%が不満に思っており、平和憲法を改定することに賛成しているのは38%だけである。日本の人々は、憲法による戦争放棄の誓約(9条として知られる)によって、国際紛争は外交的手段で解決することを選んだのである。自分たちの国と、自分たちが平和的に生きる権利をどう守るかを決めるのは日本の人々であって、米国ではない。

トモエ・オオツキ (モントリオール)

トロント、モントリオール、バンクーバーの9条の会を代表して」

@PeacePhilosophy


シンガポール陥落74周年に―高嶋伸欣バンクーバー講演全記録 For the 74th Anniversary of the Fall of Singapore - Full Transcript of Nobuyoshi Takashima's Talk in Vancouver (October 17, 2015)

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シンガポール「血債の塔」(日本占領時期死難人民記念碑)
2015年10月17日にバンクーバー・ユニタリアン教会で開催された高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)の講演については原京子氏による報告などですでに紹介しましたが、講演の書き起こし全文を高嶋氏にチェックいただいたものを改めて、シンガポール陥落74周年の記念日に合わせて公開します。高嶋伸欣・道夫妻は2月15日の追悼式典に出るためすでにシンガポールに入っています。シンガポールの華人虐殺については当ブログに2年前掲載した「村山談話を継承し発展させる会」による「2月15日・日本軍がシンガポールを占領したアジア太平洋戦争の節目の日に向け、正確な歴史認識の定着と虐殺犠牲者追悼碑への安倍首相の献花を求めるアピール」をご覧ください。@PeacePhilosophy 



和解に向けて
―アジア太平洋戦争終結70周年ー


高嶋伸欣講演記録
2015年10月17日(土)ユニタリアン教会(バンクーバー)にて

My name is Nobuyoshi Takashima I came to Vancouver for the first time, I’m glad to see you.

皆さん今日は。お会いできて光栄です。
バンクーバー講演より。左が高嶋伸欣氏、
右が通訳を務めた乗松聡子(当ブログ運営人)

今回、こちらのバンクーバーに私が来ることになりましたのは、私の父、高嶋信太郎がかつてスティーブストンの日本人学校の初代校長として赴任していましたので、その父親の歴史を確かめたいという気持ちが始まりでした。

その父親がこちらに来ました時の、日本の当時のパスポートが、兄の家に保存されていていました。その記録によるとこちらに赴任したのは1911年、104年前ということになります。

そして10年間こちらで教師の仕事をして、1921年に日本に帰国しています。
その10年間に私の父の授業を受けた教え子に当たる方たちが、戦争は終わった後に日本へ帰国をした機会に私の父のところに会いに来てくれていました。そのことを、何度か私は覚えています。

こうした個人的な理由で、バンクーバーには一度は来たいと思っていました。そこへ今回乗松さんたち、こちらのバンクーバー九条の会の皆さんがこのような企画を立てて下さり、こうした集会で報告をする機会を設けていただけたわけです。

バンクーバー九条の会の皆さんは、日本が決して戦前の軍国主義の社会に戻ってはならないという思いの方々です。そこで私たちが東南アジアで日本軍が繰り返していた侵略行為を長年調査しているのであれば、その調査の内容をみなさんに報告をするようにということになり、今日のこの会をセッティングしていただきました。

その調査の主な内容は、東南アジアに戦時中住んでいた中国系の住民を、日本軍が狙い撃ちして殺害したという事実を掘り起こすことでした。

その被害に遭った人の家族にとっては、私は加害者の側である日本人ですから、なぜ日本人がそのようなことを調べに来たのだと、その目的を疑って警戒していました。
初めの頃は、そういう殺害事件、虐殺事件が起こった場所へ一人で調査に入っていました。そのために、地元の人たちから日本人はこんなところに来るべきではない、なぜ来たと、厳しく怒鳴られたり殴りかかられかけたり、石を投げられたり、何時間も抗議を受けるという体験を何度もしました。

そういう時にも必ず地元の中国系の人たちの中から、日本人の中にもこういう人がいるのだから、と説明をして私を守ってくれる人がいました。

私は、学校の教師として、戦争中の日本軍によって起こされた侵略、加害の事実を日本の若い人々、中学・高校の生徒に説明するために事実を教えてほしくて来たという説明を繰り返しました。何度も訪問することで、だんだんに分かってもらえるようになりました。
やがてそういうことなら、私のやっていることに協力して情報をいろいろ集めてあげるよ、という人々が地元の人たちの中から何人も現れるようになりました。

そのおかげで私だけでなく同じ考えの教員を中心としたグループでツアーを組んでマレーシア各地を訪問することになっても、もうトラブルが起こる心配がなくなりました。さらに積極的に地元の方がいろいろ説明をしてくれたり、情報を集めてもらえるという状況が生まれて現在に至っています。

以上が全体的な経過です。振り返ってみると、私のこういう活動は地元の方たちと理解しあうということが積み重ねられてきたからこそ現在まで続けられてきたように思います。しかも最近は私が高齢になってきましたが、あとを継ぎますという若者が日本の中で何人も名乗りを上げてもらえています。そのような段階に来ています。

私が初めてマレーシアに旅行に行ったのは、1975年でした。その時から現在までこの取り組みを41年間続けていることになります。

今日いただいた時間は六十分です。あまり詳しくはお話しできないと思いますので、ポイントを絞って、これまでの取り組みの内容と特色などを、これから説明させていただきます。
南洋商報1999年3月4日

これは、マレーシアの中国語の新聞、「南洋商報」の1999年3月4日の特集記事の紙面です。

日本で「日の丸、君が代」を国旗・国歌として法律で明確に規定するという政府方針が発表された時のものです。日本政府の方針が明らかにされると、すぐにマレーシアの中国語の新聞がこういう特集記事を掲載したのです。

「日の丸」、そしてそれを更に変化させた「日本軍の軍旗」、これらはマレーシアの中国系の人々に、昔の辛い歴史を連想させるものです。それが今更、正式な国旗になるというのはやはり納得のいかないことだったのです。

日本による侵略を受けた人々には、日本は戦争で間違った行動をしたということで、負けた時にきちんと責任を明確にするべきだったという考えが、強くあります。それなのに、最も責任が重かった昭和天皇、その妻の皇后、この二人が処罰されずに天寿を全うして亡くなっています。このことから日本は無責任な社会だという思いが、「日の丸」から改めて連想されたのです。

そのことを記事の一番上の見出しで示しています。日本の軍国主義がまだ残っていて撤回されていない、それが今回のことで証明されたと、強調しています。

さらにこの新聞記事で注目されるのは、下にある靖国神社の写真です。

靖国神社の存在と昭和天皇が生きながらえたこと、そして「日の丸」、この三点セット。これらが日本の社会では今も何も問題にされずに受け入れられている。これらのことが、日本はあの戦争をきちんと反省していない、責任を認めていないではないということのシンボルとしてアジアの人々に語り継がれている。何かあると新聞にすぐにこういう記事が載る、ということを逆に私たちは思い知らされたわけです。

この記事が載ったのは、1999年です。私たちが調査を始めてもう25年も経った時になおこういう記事が出たのでした。私たちは日本人の責任として戦時中の日本軍の侵略による虐殺の事実をきちんと調べなければいけないと、改めて確認をさせられたのでした。

今度もまた、東南アジアの新聞記事ですが、これはシンガポールの中国語の新聞、「聯合早報です。
1990年5月25日 聯合早報

 

先ほどの記事より10年前ですが、1990年、この時はシンガポールの現役の首相だったリー・クアンユー氏が演説した内容をトップ記事で大きく載せています。

彼は、日本で間もなく戦後生まれの人々が社会や政治の権力を握る時期が来る、とまず想定しています。そうなった時、その人たちは「自力行動発展軍事力」、つまりアメリカとの安全保障条約もやめて、自力で核兵器を持つ軍事大国になるだろうと、彼は予想したわけです。

日本では戦後短い期間、野党が政権を獲得した時がありますが、大部分の期間は保守党の自民党が政権を握り続けてきました。

その保守党も私たちから見れば大変危険な考えを持っているとは思っていました。それでもまだ戦争を体験した世代が保守党の指導者でした。彼らは、戦争だけはもう懲り懲りで、戦前のような軍国主義社会に戻ってはいけないという点ではほぼ野党と同じ考えでした。

ところがそういう保守党の指導者たちも高齢になって引退をして、やがて戦後生まれの若い人たちに代わる世代交代は避けられません。そうなったら新しい指導者は戦争体験がないので、何をやり出すか日本人はわからない。そういうことをリー・クアンユー首相は的確に予想していたわけです。

そしてもうみなさんニュースでご存じだと思いますけど、現在の日本では安倍晋三首相のもとに大変危険な軍国主義への傾斜が急速に進められています。

安倍首相はもちろん戦後生まれですし、その前の小泉首相、福田首相も戦後生まれの世代です。ですから現在の日本の状況はリー・クアンユー首相の指摘通りになっているということを、逆に私たちはこういう新聞報道からまた学ばされています。

そういう状況の日本の中で、私たちは1975年から東南アジアでの日本軍による侵略、住民虐殺の行為を、多くのかたに協力していただきながら調べてきているわけです。私たちの取り組みは、明らかに戦後生まれの安倍晋三首相たちの政治勢力と対決する動きということになります。

そのために実は私たちがこういう調査活動を続けていることに対して、政府から、そして安倍晋三首相と同じ考えを持つ保守派、右翼の人たちからも様々な妨害を受けてきています。けれども一方では同じ思いの人たちがたくさんいます。協力してくださる人が現地にもいらっしゃるので、この取り組みは現在も着実に続けられています。

そういう取り組みを私たちがしていることを、今回こうやってバンクーバー、カナダの皆さんに報告をさせていただけるということになったわけです。しかもカナダ政府には、あの日本の罪を許してしまうサンフランシスコ講和条約に調印をしたという責任があるという問題提起が、こちらではされています。それならば、みなさんにもいろいろ考えていただく材料にしていただけるのではないかという点で、今回のチャンスを大変ありがたく思っております。

それではいよいよ具体的に私たちが東南アジアでどういうことを掘り起こしてきたか、事実を調べてきたか、駆け足で説明させていただきます。この地図は少し見にくいかもしれませんが、日本軍のマレー半島からシンガポールへの進撃コースを示したものです。
日本軍のマレー半島とシンガポール進撃コース

マレー半島に上陸した日本軍の目的はシンガポール攻略でした。日本軍は背後のマレー半島から、どのようにイギリス軍と戦いながら攻め下ったかを、この地図は示しています。
この地図の東海岸の上のほうにコタバルとあります。三つ目の矢印のところです。そこの日付は十二月八日と書かれています。ここの基地のイギリス軍と上陸してきた日本陸軍との戦いがこの日の早朝に起きます。いわゆるアジア太平洋戦争はここがスタート地点ということになります。

念のため申し上げますと、多くの歴史の本にはアジア太平洋戦争は真珠湾、パールハーバーから始まったと書かれています。けれども、ここコタバルの戦闘はパールハーバーの奇襲攻撃より一時間以上前に始まっています。

そのことを歴史学の研究者はほとんどが事実として認めています。

ところが、大部分の日本のジャーナリズム、マスコミや政府の人々はコタバル、マレー半島東岸が先だったとは言わずに、パールハーバーからあの戦争は始まったと現在でも繰り返し説明しています。

それは一般の人が、あの戦争がこのマレー半島にある鉄鉱石やその隣にあるスマトラの石油などの資源をとるための侵略戦争だったことに気づきにくいようにしよう、という考えがあるからだと分析されます。

そこで私たちは、こういう資料をもとにして、明らかにコタバルがパールハーバーより一時間以上前に戦争の始まった場所なのだということを、歴史の教科書に必ずそれをきちんと書いてくださいと、教科書執筆者に要求し続けてきました。

その結果、現在の日本の中学高校の歴史教科書では、コタバルないしはマレー半島の東海岸から戦争が始まったと、説明が変わってきています。

けれどもそのように教科書の説明が変わるのに約三十年かかりました。しかもマスコミ、一般の人向けの報道では今も相変わらず歴史修正主義そのままに、太平洋戦争でパールハーバーから始まったという説明が大部分なのです。

その点で、間もなく十二月八日の日が来ますので、また日本の新聞、テレビなどマスコミがどのように報道するか私たちは関心を持ってチェックをします。こちらでもどのような報道になるか、ぜひ皆さんにも関心を持って見ていただきたいと思います。
80年代の高校歴史教科書『詳説 日本史』

先ほどのような開戦の事実を教科書に正確に書いてもらうのに三十年かかるほどでしたから、細かい東南アジアでの侵略の様子を描いてもらうのにもなお長い時間がかかりました。

ここにあるのは、そのほとんど詳しく書いてない高校の歴史教科書で、1980年代のものです。十種類ぐらいある高校歴史教科書の中でもっとも多く使われ、50パーセントのシェアを占めていた教科書ですが、このアンダーラインが引いてある二行ぐらいしか東南アジアを侵略したということに触れていません。

最近の中学歴史教科書
今度は、一番最近の中学校の歴史の教科書の四つの記述です。シンガポールでは日本軍が住民を約三万五千人虐殺したと言われています。その人たちの遺骨を島内各地から掘り起し、それらをまとめて埋葬して、そこに追悼碑が建てられたのは1967年でした。その追悼碑の写真、これが一枚、これとこれもそうです。ですからこれらの歴史教科書には写真付きで詳しい日本軍の残虐行為、その他の侵略の説明が載るようになりました。

こちらにももう一枚ありますから写真は四枚ですね。四冊の教科書に載っているということになります。

先ほどのように、日本軍による住民虐殺のできごとを教科書にきちんと載せられるようになったということは、文科省の検定においても事実であると認めたことを意味しています。

そして住民虐殺が事実であると証明しているのが、のたちたのが、丹念につけることを義務づけられているものが、ここにあります日本軍の公式記録である「陣中日誌」です。これは、陸軍の中隊ごとに部隊では何をしたか、何があったか、その日の記録を丹念に毎日つけることを義務づけられていたものです。これが日本国内に保存されているのを、私たちの取り組みで198710月に発見し、12月には広く全国に報道されました。

陸軍第五師団歩兵第十一連隊
陣中日誌(1942年3月)
ここに示したのは、マレー半島の内陸にあるネグリセンビラン州で住民虐殺をした部隊の記録です。各地の部隊には、虐殺の正式な命令が出されていました。いわゆる敵性華僑狩りを実施せよというもので、日本軍に逆らう中国系の住民と思われるものは見つけ次第、子供も年寄りもすべて殺せ、男性女性構わず殺せ、という厳しい命令が出たことが記録されている部分です。

このような記録はほかの部隊も残していたはずです。けれども、敗戦の時、ポツダム宣言を受け入れると同時に日本軍の司令部からすべての部隊に対して、このような記録類はすべて焼いて隠せ、という命令が出されました。そのために、ほかの大半の部隊のこうした記録はこれまでのところ見つかっていません。

ところがこの広島の陸軍第五師団歩兵第十一連隊では、第七中隊を含めミスをしてしまっていたのです。この部隊は敗戦直前に米軍に捕えられ、これらの記録を焼かないままアメリカ軍に押収されていました。その後、戦犯裁判の証拠として使われてから日本政府に返還されていました。それを、私たちが見つけ出したのです。

この画面は、細かい字ですのでなおさら見にくいと思いますが、42年3月の「陣中日誌」の一部分です。三月四日のところを見ますと、この日はいわゆる敵性華僑をこの部隊が五十五人、銃剣で刺し殺したと、あります。自分たちの部隊の手柄として具体的に記録しています。
虐殺の事実が書かれている陣中日誌

更にその次の三月十六日のところを見ますと、今日は百五十六人を刺し殺したと書いてあります。

このように日本軍は担当地域内の各地を巡回しながら、そこで見つけた中国系の住民は子供も年よりも、女性も男性も構わずにすぐ捕まえ、その場でろくに取り調べもしないまま、名前も記録に残さないで、どんどん銃剣で刺し殺していたのです。こういうことを毎日繰り返していたわけです。

このことは当時すでに日本軍が調印をして批准もしていたハーグ陸戦協定という戦争に関する国際条約に違反しています。

その条約(国際法)では、戦闘中の銃の打ち合いなどで敵兵を撃ち殺すということは戦争だからやむを得ないけれども、もう戦う意思がないといって捕虜になったような人については、人権を保障しなければいけないと、捕虜保護の規定を明示しています。一方で、軍服を着ないで軍事行動をしている者はスパイとみなされ、捕虜の待遇は与えられないとしています。ただし、その場合もスパイ行為をしている現場で捕えられ、スパイであることが明らかでも、裁判なしで処刑をしてはならない。死刑に相当するという判決が出てからでなければ殺してはいけないと、この陸戦協定には明記されているのです。

それなのに日本軍は裁判をまったくしないで、現場の部隊のその場での判断で、一般住民であってもかまわずに刺し殺してよい、という命令を先ほどの命令書で公式に各部隊に出していたわけです。

ですから、マレーシアでの住民殺害は日本軍が国際法を守っていない卑怯な戦争をやっていたという、何よりの証拠の事件であるということになります。

そのような違法殺害を、日本軍はマレー半島へ来る前に中国大陸の各地で繰り返し実行していたということも、分かっています。

中国大陸でのそのような事件のもっとも代表的なものが、南京大虐殺です。

南京では捕虜にした中国兵を、前線の部隊の判断で殺害しています。食料を与える準備もできていなくて、邪魔だから殺してしまえと部隊の指揮官たちが兵隊に命じて殺害したのです。そうした経緯が、現在では兵隊たちの日記や証言でわかっています。

確かに捕まった中国兵のなかには軍服を脱ぎ捨てた人もいました。そのような人は捕虜の扱いをしない、ということが国際条約にも書いてあります。けれども、その場合はスパイ扱いということになりますので、スパイでも裁判を受けさせなければいけなかったはずです。

スパイ扱いをして国際条約通りに裁判をしていれば、記録が残ります。名前と人数もその記録で、現在までに簡単に確認ができたはずです。

ところが日本軍はそういう条約の規則を守らず、記録が残る裁判をしませんでした。そのために、今現在も中国側が多めにいう犠牲者三十万人というのは嘘だと反論しながら、じゃあ日本側は確実な被害者の数を証明できるのかというと、できていないのです。いろいろな情報をもとにせいぜいこれくらいだろうという曖昧な数字を出すことしかできていません。そうやって半世紀以上もの間、犠牲者数をめぐる論争が続いているという状況です。

そういう状況の中でみなさんもニュースでご存じと思いますが、中国が南京大虐殺の記録をユネスコの世界遺産に登録すると申し出たことに対して、日本政府がヒステリックな反応をし、論争を挑んでいます。

最近の日本政府のそのような反応は明らかに間違っています。これまで説明した資料などからすると、到底言ってはならないことなのです。日本人として大変恥ずかしい行動を日本政府はしていると、私は思っています。

実は明日日本へ帰国してから間もなく、この問題のシンポジウムが予定されていて、そこで私が基調提案をすることになっています。そこで、この点を私は指摘するつもりでいます。

その時に今日ここにお集まりの皆さんからも、こういう意見が出ましたということが言い添えられると一層効果的です。のちほどのQ&Aのときでも意見を聞かせて頂ければ大変ありがたいです。

この画面は私たちが「陣中日誌」のような資料を手に入れるのと並行して、地元の皆さんに協力してもらいながら、犠牲者のお墓や追悼碑を捜し歩いた結果を、まとめたものです。1992年にある出版社が出した本の2ページ、見開きの紙面に地図と写真と組み合わせて30か所を紹介してあります。
『写真図説 日本の侵略』(大月書店 1992年)より

みなさんからは見にくいかもしれませんが、このマレー半島内陸のここネグリセンビラン州では、こんなにたくさん事件があったのです。そしてその犠牲者の追悼碑がこのようにそれぞれ建てられていることを、92年の時点で私たちが確認できていました。

ここまで調べるのにも、私たちははじめのころは本当に手探りでした。レンタカーで走りながら中国人の墓地を見つけると、何かあるかもしれないとその墓地の中をぐるぐる回りながら見つけるというやり方もしました。そのうちに地元の人から、それだったらあそこの墓地へ行きなさいと教えてもらえたりして、90年頃には急速にこういう確認ができた場所の数が増えてきていました。

そしてこの92年にこのように本に結果を発表できたのです。そこで。みなさんの協力のおかげですと現地で報告をすることにしました。このページをコピーしてマレーシアに持っていって地元の皆さんに見せました。すると地元の人たちが、自分の地域の追悼碑のことは知っていたがマレーシア中にこんなにあるのかと、驚かれました。初めて知った、ということでした。

同時に特にマレーシアの若いジャーナリストたちなどから、こういう調査を日本人が先にやったが、自分たちがやるべきではなかったのかという意見が出てきました。そして、まだ調べ切れていないところがたくさんあるから、その地域のことを今度は自分たちが調べよう、と言い出してくれたのです。

その結果、私たちが十分に調べられなかったジョホール州の北部、それからクアラルンプールの北のペラ州、さらにコタバルに近い北東部の地域など、新たに地元の人たちがお年寄りから聞き出して私たちに教えてくれる情報はどんどん増えました。
こうして、現在では七十二か所まで、こういう事件のあったところの追悼碑、お墓の存在が確認できています。

そういう調査結果を私たちが独り占めするのではなく、調査が終わるたびに広く伝えていくことにしています。今度はこういうところのモニュメントを確認しました、事件があったことを確認しました、と広く知らせるようにしてきたのです。

その結果、私たちのツアーに参加しなかったけれども教科書執筆をしている人が、私たちが伝えた情報をもとにして、教科書に書き込んでくれるようになりました。すると、その情報をやはり知っている文科省の検定官も、事実だと認めていますから、その記述を削れと言えなくなったわけです。こうして、日本軍の残虐行為を否定しようとする歴史修正主義が、教科書では一定程度阻止されるという状況を、東南アジアに関して作れています。

こうした私たちの取り組みに対しては、当然ながら安倍首相たち歴史修正主義者たちが、最近次々と圧力を強めてきています。それらは私たちに対する直接のものや、教科書の記述を変えさせようとするものなど、さまざまです。

けれども、私たちはそういう動きに負けるわけにはいきません。これからも明確に事実を確認しながら歴史修正主義と対決をしていくつもりでいます。

次には、そういう取り組みをしている中で生まれた和解の話題を紹介したいと思います。
発見された直後のスンガイルイ虐殺被害者の墓

日本軍は戦争中に、中国系の人とマレー系の人との仲たがいの状況を深刻化させる民族分断策を占領地で実行していました。そのために、中国系とマレー系の間には戦後もしこりが残っていました。ところが、虐殺事件の再確認を進めたことが、逆に両者の仲直りのきっかけになったというエピソードです。

画面にあるのは、1984年、三十年以上前に偶然ジャングルの中から見つかった日本軍による大量殺害犠牲者のお墓です。殺された三百六十八人の遺体を仮の埋葬場所から移して、お墓も建てられていました。けれども長い間、お墓のことは忘れられ、周りがジャングルに戻ってしまっていました。写真は、そのお墓が、1984年に再発見された直後の写真です。

場所はマラッカの北のネグリセンビラン州の端のスンガイルイという小さな村です。

スンガイルイでは、当時わずかですが砂金が出ていました。その砂金を川から採取する人が集まっていて、それに合わせて商店も駅前に並んでいる、にぎやかな田舎町だったそうです。そこへいきなり日本軍が来たのです。1940年8月29日と言われていますが、突然来て村人を駅前広場に集め、中国系の人たちだけに列を作らせて、それを機関銃でなぎ倒したそうです。

日本軍がそのような乱暴なことをした理由は、その前日に日本軍が情報集めのスパイとして使っていたマレー人が、山から下りてきたおもに中国人の抗日ゲリラに殺されたという情報が入ったからでした。日本軍が仕返しのために突然やってきて、ほとんど取り調べもしないで、この地域の中国系住人を見境なく殺したということです。このことは、先ほどの「陣中日誌」にも書かれています。

似たようなことは、ヨーロッパでナチスがギリシャやユーゴスラビアでやっています。そのことは、ヨーロッパ社会ではよく知られていますが、実は東南アジアでも日本軍が同じことをしていたのです。

しかもそこでみなさんに注目していただきたいのは、マレー人を日本軍が抗日ゲリラなどを攻撃するためのスパイに使っていたことです。民族間を分断して憎しみあうような役割分担をさせていたのです。実際、この時、マレー系の人々はその広場にいても、お前たちは関係ないからどいていろと言われ、彼らの見ている前で中国系だけが無差別に殺されているのです。そういう事件でした。

そのことが、実はこのお墓が見つかった後も、マレー系と中国系が衝突しかける事件につながりました。この写真を見ると、お墓の周りの木は切り開いてあって、明るく見えます。この切り開いたところは、州政府がマレー系の農民に農地として安く払い下げてしまっていた場所なのです。

そのために、マレー系の人々は、このお墓が見つかったことで、自分たちの土地を中国系に横取りされるのではないかと心配し始めます。それくらいこのお墓再発見のニュースを知り、中国系の人が、次々と訪れていたのです。不安に駆られたマレー系の村民が、見に来た中国人に石を投げたりして、今にも民族対決が起きかねない状況にまでなったそうです。

そのために一時期ここに臨時の交番が置かれます。警察官が様子を見て中国系とマレー系の人々が衝突しそうになる時は警察官が割って入るという時期が、しばらく続いたそうです。

ところがそのうちに、マレー系の人たちもお墓の周りのそれほど広くない土地ならば、譲ってもよいと考えるようになります。宗教や民族は違っても、お墓というのは大事なものなのだから、中国系の人たちにその土地の所有権を譲ってあげようじゃないかと、マレー系の人たちの集まりの中で話し合って意見が一致したそうです。
お墓をめぐりマレー系と中国系住民が和解へ


それで、私たち日本人までもが来るのかと言われそうなところに安心して行けるという状況になったのです。そして、なぜマレー系の人々が考えを変えたのかを、知ることができました。そのマレー系の人たちの話し合いをまとめたのが、マレー系の村の村長のムヒディンさんでした。

彼はこのときの村長ですが、実は事件があったとき十六歳でした。駅前広場に偶然居て、虐殺の場面を目撃していた人です。日本軍から、脇にどいて機関銃で中国系の人たちが殺されるのを見ていろと言われ、震えながら目撃していたそうです。

彼はそのとき十六歳ですから記憶も非常にしっかりしています。私たちがそのときの体験を直接聞かせてもらったときも、次々と残酷な場面があって、あんなにひどいことはなかったと涙を流しながら語る人でした。

そういう人ですから、マレー系の集落の中の人たちを説得し、自分たちの農地のほんの一部分を譲ることで、対決の回避を図ったのです。その後、中国系の村長の林(リン)さんと話を進め、対立の解消、和解が実現します。

私たちも、毎年の八月のツアーのたびにスンガイルイを訪問して、中国系村長のリンさんから状況を聞いていました。ある時、マレー系が土地を譲ってくれることになった、と大変うれしそうに話をしてくれました。そして今度は、土地とお墓を整備するためのお金が必要なので、カンパをあちこちに求めていると、言われました。そこで、日本人がカンパしてもいいですか、と尋ねたところ、喜んで受けると言ってくれました。次の年には、日本全国の人々に呼び掛けて集めた一万リンギット(マレーシアドル、約30万円)を渡しに行きました。

私たちが日本で集めたカンパのお金や地元の皆さん、特に村長のリンさんがたくさんお金を出しているのですが、そうした善意の資金によって、先ほどのお墓が、現在ではこのようにきれいに整備されています。
きれいに整備された墓


一方で。そのスンガイルイの住民を殺せと指示をした部隊の隊長の責任は、重大です。あの「陣中日誌」に詳しい記録が残っていましたから、戦争が終わった後、隊長は戦犯として裁判にかけられ、死刑になりました。

その隊長は橋本忠(ただし)少尉という広島の部隊の指揮官でした。彼は独身で妻も子供もいませんでしたが、その身内の甥に橋本和正さんという人がいます。その和正氏は、叔父の戦争責任のことを忘れるわけにはいかないと、考えていました。そして一度マレーシアの現地に行って被害者の家族にも会いたいと考えていたのです。彼は、私たちの20128月のツアーに参加してスンガイルイを訪問しました。そのときの様子をマレーシアの新聞が報道してくれています。
マレーシアの新聞に報道された橋本さんのスンガイルイ訪問

これ(右)は今年8月に和正氏が、スンガイルイをまた訪問した時のものです。今年の場合、妻と息子も同行し、家族でリン村長と再会をしました。
右からリン村長、橋本氏、妻、息子

三年前に初めて参加したとき、橋本さんはその殺害をした部隊の家族ですから、マレーシアで地元の人たちからどんな仕打ちをされるか実は大変心配をしていたそうです。けれども地元の人たちから、来るには勇気がいるだろうによく来てくれた、その気持ちが大変うれしいと、言われたのです。さらに、これからもぜひ繰り返し来てほしい、とも言われました。それならば、次は家族で行こうと考え、今年の八月にまた参加されたわけです。当然地元でも歓迎してもらいました。

ところで、先ほどの橋本忠少尉たちは広島の部隊だと申し上げました。みなさんは、広島なら原爆を落とされた場所だということも、お気づきだと思います。実はその原爆のために建物の下敷きになって片足を失った女性、沼田鈴子さんはやはり原爆での被害者であるとばかり言っていてはいけないと、考えていた方です。その広島の部隊がマレーシアで住民虐殺をやったのだと知り、現地に行きたいという思いをもって私のツアーに参加をしました。19893月のことです。そうしたところ、沼田さんはマレーシアの現地で大歓迎をしてもらえました。
沼田鈴子さん

これは、彼女が私たちと虐殺事件のあった場所を訪問したときの写真です。あの原爆で被害を受けたその広島の部隊が、それより三年前にマレー半島で住民虐殺をやったということを高嶋に聞いた。それ以来、一度はマレーシアの人たちにお詫びをしなければ気が済みません、という気持ちが強まる一方だった。そこでとうとう実際にやって来ましたと、マレーシアの人たちの交流集会でスピーチをしたのです。それを聞いた地元の中国系の人々が、総立ちで歓迎をしてくれるという場面に私たちも立ち会えました。


この画面(下)は、あの安倍首相が否定をしようとした村山談話を村山首相が出すほぼ一年前の19948月にシンガポールを訪問して、先ほどのあのシンガポールの追悼碑に、日本の首相としては初めて花輪を供えたときのものです。シンガポールの新聞は大きな扱いで報道しました。
村山首相によるシンガポール追悼碑への献花。1994年8月28日シンガポールの新聞に報道された。

1990年7月 シンガポールの被害者の遺品の
貸出についての新聞記事
この画面(右)は、私の自身の行動のことですので、少し自己宣伝になります。シンガポールで殺害された人たちの遺骨と一緒に掘り出された遺品は、同じ種類のものが大部分でした。そのため大半は倉庫にしまったままになっていると、知りました。そこで、是非それらを日本の学校の教材や展覧会の展示品に貸してほしい、とお願いをしたときの新聞記事です。

そのお願いは、初めのうちは日本人にそのようなものを貸すわけにはいかないと、断られました。それでも毎年お願いしていました。すると、数年後に、それほど真剣に言うのならあなた方を信用して貸してあげる、という返事が得られました。

この画面は、実は返した時の写真なのです。この時、全部返す必要はないと言われました。そこで私たちは、日本に三十数点の遺品を残して、学校で生徒に見せたり、立命館大学の博物館に展示したりということを続けています。今日はここに十点ほど持ってきていますので、のちほど御覧いただきたいと思います。たとえばこれは眼鏡ですね。遺品の中には眼鏡がたくさんありました。やはり人々がいつも身に着けているものが、骨と一緒に掘り出されたというわけです。それらにはほとんど名前が書かれていませんから、遺族に渡すこともできないのです。

こうして、私たちは遺品を貸していただき、各地の展覧会などで展示してもらいました。大勢の人が展覧会で見てくれました。日本人の中でもこういうことに関心を持っている人がたくさんいることが、証明されたのです。

そうした多くの皆さんが協力をしてくださったのに応えて、私は全国の高等学校の生徒に学習してもらえるように、高校用の教科書に日本軍がこういう虐殺などをマレーシア各地でやったのだということを書きました。ところが、教科書検定でそのようなことは書くなという指示を出されたのです。最終的にはこのことを書いた原稿は、撤回させられました。(下)
教科書検定で問題となった『新高校現代社会』の高嶋氏執筆部分

そこで私は、文部大臣を相手に裁判(高嶋教科書裁判)を起こしました。最初の地方裁判所では私が正しく、国が間違っているという判決を獲得しました。しかし、そのあとの高等裁判所、最高裁判所では、国が無理やりつけたこじつけの理由を裁判所が認めて、私のほうが負けということになりました。

けれども実はここにある追悼碑の写真(上)は、私の代わりに原稿を出した人がまた載せてくれて、それを検定官が認めたものです。中学校の歴史教科書だけではなく高校の教科書でもこういう追悼碑の写真は載せることができています。

この会場には中国語、漢字がわかる方が多くいらっしゃるようですが、検定官が私の原稿について、一番ダメだと言ったのが、中国語新聞の見出しのこの文字です。わかりにくいかも知れませんが、「天皇」の「皇」の字に虫偏がついている「蝗」という字です。蝗(イナゴ)の大群と日本軍は同じだという意味です。日本軍が通ったら一木一草残らない。読みが同じであるだけでなく、意味が似ているというので、マレーシアの中国語の新聞では、戦時中の日本軍のことを「蝗軍」と、こういう字で表現しています。その新聞の見出しを私は教科書に載せたのです。そうしたところ、天皇を表す言葉に虫偏をつけるとは、なんて畏れ多いことをするのだと、検定官は考えたのです。そこで、絶対にこれはダメだと言ったのでした。

そういうことを言われてみて、やはり日本の保守派は天皇制を少しでもマイナスイメージにするものは許さないのだと、分かりました。ですから侵略の責任も日本の天皇の軍隊がやったことだと言われることになるから、それは許さないということなのだ、というわけです。

日本の軍国主義はやはり滅んでいないという先ほどのマレーシアの中国語新聞「南洋商報」の記事の中に、天皇の写真が載っていました。そして文部省の検定官が、中国語の新聞の「蝗軍」という文字は許せない、天皇に失礼だという発言をしたのです。この二つの話題は、現在の日本の天皇制についての問題点を共通して示していると、私は受け止めています。

今も続いている歴史修正主義の根底には、昭和天皇の絶対視がある。これが日本の軍国主義を保っている大きな要因なのだと改めて感じています。そのことに関してアジアの人々は非常に敏感です。けれども残念ながらアメリカ、ヨーロッパの方々はそれほどこのことに関心を持ってはいないように見えます。みなさんの場合はいかがでしょうか。ぜひこの観点からのご意見を聞かせていただけるように、宜しくお願いいたします。


ご静聴ありがとうございました。

(終)

―講演後に、日本軍占領時にマレーシア・ネグリセンビラン州で子ども時代を過ごしたシュエ・タク・ウォング氏(サイモンフレイザー大学名誉教授)と歴史学者ジョン・プライス氏(ビクトリア大学教授)にコメントをもらい、Q&Aの時間も設けました。それらの記録はまとめた時点で追加投稿します。

この投稿と一緒に読んでもらいたい投稿










An Open Letter: We urge Mr. Dion, Canada's Foreign Minister to withdraw his support for the unconstitutional “peace and security” legislation of Japan. 公開書簡 カナダ・ディオン外相へ-岸田外相との共同声明で表明した日本の安保法制への「歓迎」を撤回してください。

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See French, Japanese 日本語 and Chinese 中文 translation below. ↓


Mr. Dion and Mr. Kishida at the bilateral meeting in Ottawa, February 12, 2016 


An Open Letter to:

Justin Trudeau, Prime Minister of Canada
Stéphane Dion, Minister of Foreign Affairs of Canada


February 24, 2016

We urge Mr. Dion to withdraw his support for the unconstitutional “peace and security” legislation of Japan.


Dear Mr. Trudeau and Mr. Dion,                                 

We are groups of citizens in Montreal, Toronto, and Vancouver who support Article 9, the war-renunciation clause of Japan’s post-war constitution.

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized. 

On February 12, Mr. Dion met with Japanese Foreign Minister Mr. Fumio Kishida in Ottawa, and issued the “Joint Statement by the Foreign Minister of Japan and the Foreign Minister of Canada.” It says:

Minister Dion welcomed Japan playing a more proactive role in support of global peace, stability and prosperity based on the policy of “Proactive Contribution to Peace” including Legislation for Peace and Security.

We were surprised to hear that the Canadian government officially welcomed the highly controversial “Legislation for Peace and Security” of Japan, which passed the Japanese Parliament last September in an opaque and undemocratic process that opposition lawmakers claim was unlawful. The legislation would expand the role of the Japanese Self-Defense Forces to the extent that Japan would contravene the “defense-only” policy that the country is constitutionally obliged to uphold under Article 9. The majority of the people of Japan oppose the legislation. Constitutional scholars surveyed in July 2015 almost unanimously found the legislation unconstitutional. Thousands of people protested daily at the Parliament Building during weeks leading up to the legislation, and rallies still continue. On February 19, five opposition parties submitted bills aimed at scrapping the legislation.

It is unconscionable that the new Liberal administration, to which Canadian voters entrusted more diplomatic and non-militaristic approaches to international conflicts and tensions, publicly endorsed this contentious legislation that fundamentally challenges one of the key principles of another country’s constitution. An equivalent of it would be Japan praising the much-debated Bill C-51 of Canada.

In the spirit of democracy and peace, we ask Mr. Dion to:

  •      Withdraw his “welcome” of Japan’s “Legislation for Peace and Security.”
  •        Revise the February 12 Joint Statement with Foreign Minister Kishida accordingly.

Sincerely,

Montreal Save Article 9/Sauvons l'article 9
Toronto Article 9
Vancouver Save Article 9 (http://vsa9.org)

Contact: Satoko Oka Norimatsu, Vancouver Save Article 9




Click HERE for PDF version. 

French version 


Lettre ouverte à:

Justin Trudeau, Premier Ministre du Canada
Stéphane Dion, Ministre des Affaires Étrnagère du Canada

Le 29 février, 2016

Nous préconisons Mr Dion de retirer son soutien de la législation anticonstitutionnelle de « Paix et Sécurité » du Japon.

Chers Mr Trudeau et Mr Dion,

Nous faisons parties de rassemblements de citoyens de Montréal, Toronto et de Vancouver qui soutenons l’Article 9, la clause de renonciation à la guerre de la constitution d’après-guerre du Japon.

Article 9. Aspirant sincèrement à une paix internationale fondée sur la justice et l’ordre, le peuple japonais renonce à jamais à la guerre en tant que droit de la nation, et à la menace ou l’usage de la force comme moyen de règlement de conflits internationaux.
Pour atteindre le but fixé au paragraphe précédent, il ne sera jamais maintenue de forces terrestres, navales ni aériennes, ou autres potentiels de guerre. Le droit de belligérance de l’État ne sera pas reconnu.

Le 12 février dernier, Mr Dion recevait le Ministre des Affaires Étrangères du Japon, Mr Fumio Kishida, à Ottawa, et émet une « Déclaration Commune des Minstres des affaires Étrangères du Japon et du Canada. » Ceci étant :

Monsieur le Ministre Dion accueille un rôle plus dynamique de la part du japon dans le soutien de la paix, la stabilité et la prospérité globale basé sur les politiques de « Contribution Dynamique à la Paix », incluant la Législation pour la Paix et la Sécurité.

Nous sommes étonnés d’apprendre que le gouvernement canadien accueille officiellement la législation très controversée de « Paix et Sécurité » du Japon, qui est passée au Parlement japonais en septembre dernier de manières opaques et non-démocratiques. Des méthodes que l’opposition prétend être illicites. La législation accroîtrait le rôle des Forces d’Auto-Défence du japon au point d’enfreindre à la politique de « défence uniquement » que le pays est constitutionnellement obligé de respecter sous l’Article 9. La majorité du peuple japonais est opposée à cette législaton. Des constitutionalistes interrogés en juillet 2015 ont presqu’unanimement déclaré la législation comme étant anticonstitutionnelle. Des milliers de personnes ont manifesté devant le Parlement du Japon durant le semaines précédant le vote sur la législation, et des rassemblements continuent de prendre place. Le 19 février, cinq parties de l’opposition ont présenté des projets d loi visant à supprimer la législation.

Il est inconcevable que la nouvelle administration Libérale, auquel l’électorat canadien a confié un mandat d’approche plus diplomatique et non-militariste envers les conflits et tensions internationaux, puisse appuyer cette législation contentieuse qi remet fondamentalement en question les principes de la constitution d’un autre pays. Cela équivaudrait à un soutien pour la loi C-51 de la part du Japon.

Dans l’esprit de la démocratie et de la paix, nous demandons à Mr Dion de :
  • Retirer son « accueil » à la « Législation de Paix et de Sécurité » du Japon.
  • Revoir en conséquence la Déclaration Commune avec le Ministre des Affaires Étrangères Kishida du 12 février.

Très sincèrement,

Montréal Save Articl9/Sauvons l’article 9
Toronto Article 9
Vancouver Save Article (http://vsa9.org)

Contact : Mme Sumi Hasegawa, Montréal Sauvons l’article 9



Japanese translation


カナダ ジャスティン・トルドー首相、ステファン・ディオン外相への公開書簡

2016年2月24日

ディオン外相に、日本の違憲「平和安全法制」への支持の撤回を求めます。

トルドー首相殿、ディオン外務大臣殿:

私たちは、日本戦後憲法の戦争放棄条項である第9条を支持するモントリオール、トロント、バンクーバーそれぞれの都市の市民グループです。

憲法九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

去る2月12日、カナダのディオン外務大臣と、日本の岸田文雄外務大臣がオタワで会談し、日加同声明を発表しました。下記にあるのはその声明からの抜粋です。

ディオン大臣は、平和安全法制を含む「積極的平和主義」に基づき日本が世界の平和、安定および繁栄のためにより一層積極的な役割を果たすことを歓迎した。

日本の「平和安全法制」は、昨年9月に不透明かつ非民主的な手続きで国会を通過した法案で、野党からはその違法性を指摘されています。このように大変な議論を巻き起こしている法制を、カナダ政府が正式に「歓迎」すると表明したことに、私たちは驚きを隠しきれずにいます。この法制は、自衛隊の海外での活動を拡大することを目的としたもので、日本がこれまで憲法九条に基づき遵守することを義務付けられてきた「専守防衛」方針に違反するものです。日本の市民過半数がこの法制に反対しています。また、2015年7月に行われた調査では、日本の憲法学者のほとんどがこの法制を「違憲」と見ています。昨年この法案が成立に至るまでの日々、毎日のように何千、何万もの人々が国会議事堂反対を訴えました。抗議活動は現在も続いています。先日の2月19日にも、野党側の5政党がこの法制の廃止を求める法案を提出したばかりです。

自由党政権はより外交的手段を重んじ、軍事には依らない国際紛争や緊張の解決にあたるであろうと、カナダの有権者の期待を背負って誕生しました。この政権が、他国の憲法の基本的原則の一つを根本的に脅かすような法案を公的に支持するというのは良心に反した行為です。これは例えば、カナダで同様に激しい議論を呼んできたC-51法案を日本政府が称賛することに匹敵することではないでしょうか。

わたしたちは民主主義と平和の精神にのっとり、ディオン氏に以下の二点を求めます。

(1)ディオン氏が、日本の「平和安全法制」への「歓迎」を正式に撤回すること。
(2)(1)にならい、2月12日付の岸田外務大臣との共同声明を修正すること。

モントリオール九条を守る会
トロント九条の会
バンクーバー九条の会(http://vsa9.org/


連絡先:Satoko Oka Norimatsu(バンクーバー九条の会)info@vsa9.orgまたはinfo@peacephilosophy.com


Chinese translation 

加拿大總理賈斯廷.杜魯多及加拿大外交部長史提芬狄安公開信

 

2016224

 

狄安部長撤回違憲日本和平安全」的支持

 

尊敬的魯多先生和狄安先生

 

我們蒙特利爾多倫多和溫哥華支持日本戰後和平憲法第九條——即放棄戰爭條款——的公民團體。


第九條日本國民衷心謀求基於正義與秩序的國際和平,永遠放棄以國權發動的戰爭、武力威脅或武力行使作為解決國際爭端的手段。
為達到前項目的,不保持陸空軍及其他戰爭力量,不承認國家的交戰權。

 

狄安先生212日在渥太華會日本外務大臣岸田文雄先生,並公佈日本外相加拿大外長聯合聲明》,聲稱

 

狄安部長歡迎日本基於主動促進和平」的政策(包括和平安全在維護世界和平穩定與繁榮方面發揮更積極的作用。

 

我們驚加拿大政府表達官方支持受爭議的日本和平安全法」(簡稱「安保法」);日本國會去年9通過該安保法案的程序既不透明不民主反對派議員直指其為非法。該法案將擴大日本自衛隊的功能範圍,違反該國根據憲法第九條所規定只限衛」憲法義務。大部日本人民反對是項立法2015年7一項調查中,日本憲法學者基本一致認定安保法違憲。立法過程的數星期間,國會大樓前每天都有成千上萬人舉行抗議活動,集會仍在繼續。219日,五反對黨聯名提交法案,旨在廢除該新安保法

 

加拿大選民剛托付成立的自由政府多外交和非軍方法來處理國際衝突和緊張局勢,而外長狄安先生公開認可個從根本上衝擊他重大憲法原則、充滿爭議的法案,做法理智相當於由日本出面揚備受爭議的加拿大C-51法案 。

 

本著民主與和平的精神,我們要求狄安先生:

·撤回日本和平安全」的「歡迎
·據此修訂212日與岸田外的聯合聲明

           

蒙特利爾第九條

多倫多第九條

溫哥華第九條

仝上

 

聯繫: 溫哥華第九條http://vsa9.org乘松聰子(Satoko Oka Norimatsu)

info@vsa9.orginfo@peacephilosophy.com




「護憲派」の皇太子発言賛美にひと言

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ツイッターフェースブックでつぶやいたことを転載します。

日本の多くの護憲「リベラル」が皇太子の誕生日会見の「護憲」発言とやらを絶賛しそれを大手メディアが報道しなかったとか言って怒っている。何か勘違いしていないか。皇室のメンバーが憲法を遵守するのは憲法で定められた当たり前のことであるし、そもそも皇太子は会見で「憲法」に触れていない。

昨年の戦後70年に言及したこの部分

「私自身も,雅子と愛子と一緒に,7月そして8月に,戦後70年に関連した特別企画展などを訪れました。そこでは,戦争の記憶を風化させることなく,次の世代,さらにその次の世代に語り継いでいくべく,様々な展示や講演などが行われておりましたが,改めて過去の歴史を学び,戦争に至った背景や,戦時中の惨禍,戦後の荒廃から立ち直る上での人々の並々ならぬ努力についての理解を深め,そして平和の意義について真摯に考えるよい機会となりました。」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h28az.html 

について言っているのなら、それはその通り、戦争の歴史を学び平和を真摯に考えている、と言っているのであってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。日本の「護憲」派が、天皇や皇室のメンバーを持ち上げて安倍に対抗しようとしているのだったらそれこそ違憲的行為である。勘違いもはなはだしい。

天皇は国民の象徴に過ぎず国民の上に立つものではない。これが戦争の教訓にもとづいて戦後日本が採用した日本国憲法の根幹「主権在民」の鉄則である。これらの「護憲」派は天皇や皇室を持ち上げることによって、天皇を改憲で「元首」としようとしている自民党に加勢している。

「護憲」派は、皇室の力などそもそもあってはいけないものを借りようとせず、主権が存在する自らの責任と自らの力において憲法を守り、違法、違憲の「安保法制」廃案に向けて努力すべきである。

@PeacePhilosophy 

Political agenda behind the Japanese emperor and empress’ “irei” visit to the Philippines (Asia-Pacific Journal) 天皇皇后フィリピン「慰霊の旅」の政治的目論見(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』)

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Reposted fromthe Asia-Pacific Journal: Japan Focus.  『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』から転載。

Remembering the victims, on the 71st anniversary of the ending of the Battle of Manila (February 3 - March 3, 1945). マニラ市街戦(1945年2月3日から3月3日)終結71周年の記念日に、被害者に思いを馳せながら。

Memorare-Manila 1945, Intramuros, Manila. Upon embarkation from Haneda, emperor Akihito said, "A great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila. This history will always be in our hearts as we make this visit to the Philippines," but during their stay in the country, he and empress Michiko never visited this memorial dedicated to the 100,000 civilian victims of the Battle. 
マニラ市イントラムロス地区にあるマニラ市街戦被害者の追悼碑。明仁天皇は出発時羽田で、「...マニラの市街戦では、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と語ったが、フィリピン滞在中、彼と美智子皇后はこの戦闘の10万人の民間人被害者を追悼する碑を訪れることはなかった。


Political agenda behind the Japanese emperor and empress’ “irei” visit to the Philippines 
                                                     
Kihara Satoru and Satoko Oka Norimatsu

Emperor Akihito and empress Michiko of Japan visited the Philippines from January 26 to 30, 2016. It was the first visit to the country by a Japanese emperor since the end of the Asia-Pacific War. The pair’s first visit was in 1962 when they were crown prince and princess.

The primary purpose of the visit was to “mark the 60th anniversary of the normalization of bilateral diplomatic relations” in light of the “friendship and goodwill between the two nations.”[1] With Akihito and Michiko’s “strong wishes,” at least as it was reported so widely in the Japanese media,[2] two days out of the five-day itinerary were dedicated to “irei 慰霊,” that is, to mourn those who perished under Imperial Japan’s occupation of the country from December 1941 to August 1945.

The Japanese term “irei” literally means to “comfort the spirit” of the dead, and is used generally to mean notions such as to “mourn,” “pay tribute (respect) to,” and/or to “remember” those who die in abnormal situations like wars, natural disasters, accidents, and crimes. Another word commonly used for such purposes is “tsuito 追悼,” – literally “to remember the dead with sadness.” The latter term is regarded as more neutral and secular, and is used for those who die of natural causes as well. The two are often used interchangeably, but some problematize the term “irei” as having a religious meaning, one tied to Shintoism, and the two should be distinguished carefully.

Folklorist Shintani Takanori points out that notions of remembering the dead in Japanese culture, with its tradition of “enshrining the dead as gods,” cannot be easily translated into Anglophone culture. The word “irei” has a connotation beyond “comforting the spirit” of the dead, which embeds in the word the possibility of the “comforted spirit being elevated to a higher spirituality” to the level of “deities/gods,” which can even become “objects of spiritual worship.”[3]

Shintani’s argument immediately suggests that we consider its Shintoist, particularly Imperial Japan’s state-sanctioned Shintoist significance when the word “irei” is used to describe the Japanese emperor and empress’ trips to remember the war dead. This is particularly the case given the ongoing international controversy over Yasukuni Shrine, which enshrines those who died for the emperor in battles during the period of the Empire of Japan, notably during the Asia-Pacific War. Following Shintani, in this article we italicize the term irei to call attention to the difficulty of translating the complex notion into an English term.[4]

Akihito and Michiko had paid such irei visits previously to Iwojima (1994), Nagasaki, Hiroshima, Okinawa and Tokyo (aerial bombing) to mark the 50th of the war end in 1995, Saipan (2005), and Palau (2015). The Japanese media across the board applauded their visit to the Philippines, as one that demonstrated the pair’s sincere gesture of remorse over the scars of war. It is, however, necessary to carefully examine political calculations behind this visit.

1.     A precursor to Japan-U.S.-Philippines military unification

First, this visit took place in the midst of increasing military cooperation and alliance among the United States, Japan and the Philippines, based on a strategy of opposing China’s advancement in the South China Sea.

In November 2015, President Obama visited the Philippines for the APEC summit and on board the Philippine’s Navy ship BRP Gregorio del Pilar, a former U.S. Coast Guard vessel, he stressed the two countries’ “shared commitment to the security of the waters of this region and to the freedom of navigation,” and reiterated the U.S. plan to increase military aid to its allies in the region.[5] Shortly after Obama’s visit, the U.S. announced an increase in its annual military aid to the Philippines to 79 million dollars.[6]

The Supreme Court of the Philippines, as if in response, ruled on January 12, 2016 that the Enhanced Defense Co-operation Agreement (EDCA) was constitutional. The 10-year defense agreement signed in 2014, which would allow expansion of U.S. military activities in the Philippines, “rotating ships and planes for humanitarian and maritime security operations.”[7] EDCA had met the legal challenge which claimed that the pact infringed the nation’s sovereignty.[8]

U.S. Secretary of State John Kerry and Secretary of Defense Ashton Carter, in a January 12 meeting in Washington with their Filipino counterparts, welcomed the Philippine Supreme Court’ decision. Carter said that the Philippines “is a critical ally of the United States as we continue and gather and strengthen our rebalance to the Asia-Pacific region… our commitment is ironclad.”[9] According to a news report of January 13, the Philippines will offer eight military bases for the United States to build facilities to store equipment and supplies.[10] These moves are understood in the context of rising tensions in the South China Sea, including territorial disputes between China and the Philippines over islands in the South China Sea. The Philippines brought the case to the UN-appointed permanent court of arbitration (PCA) in the Hague in 2013, and the final judgement is expected in mid-2016, with the likelihood of being in favour of the Philippines.[11]

Japan and the Philippines have been holding reciprocal visits. In June 2015, Prime Minister Benigno Aquino III visited Japan as a state guest, and in the June 4 “Joint Declaration – A Strengthened Strategic Partnership for Advancing the Shared Principles and Goals of Peace, Security, and Growth in the Region and Beyond,” the two governments agreed to “expand their security cooperation” through means such as “participation of Self-Defense Forces in disaster relief activities in the Philippines,” and “the expansion of bilateral and multilateral trainings and exercises for capacity building.”

In the following month, Prime Minister Abe visited the Philippines as part of a three-state tour that included Singapore and Malaysia, and in the bilateral summit, announced Japan’s provision of 10 patrol vessels through a yen loan “in order to enhance the capacity of the Philippine Coast Guard.” These moves all address the “South China Sea issue” which Abe indicated “is a matter that concerns the regional and international communities.”[12]

In April 2016, the Japanese Defense Minister Nakatani Gen is expected to visit the Philippines to discuss with his Philippines counterpart, Defense Secretary Voltaire Gazmin, Japan’s provision of military equipment to the Philippines such as TC-90 training aircraft and expanding joint military exercises between Japan’s Maritime Self-Defense Force and the Philippine Navy.[13]

Akihito and Michiko’s visit to the Philippines should be understood in the context of such increasing military alliance involving U.S., Philippines and Japan. The Abe administration has used symbolic irei trip to pave the way for Japan to play a more active military role overseas under the “use of the right to collective self-defense” enabled by the set of laws rammed through last year that changed the interpretation of the Article 9, the pacifist clause of Japan’s post-war constitution.

Emperor Akihito on the other hand, during the Imperial Palace banquet to welcome President Aquino on June 3, 2015, emphasized the need for the Japanese to remember the “loss of many Filipino lives” as a result of the “fierce battles between Japan and the United States” that took place in the Philippines, with “a profound sense or remorse.” He offered his “deepest condolences to all those who lost their lives then.”[14] Significantly, however, Akihito has refrained from any word of direct apology on such occasions, just as in his trips to Saipan and Palau.

The Philippine Star, one of the most-read broadsheet in the Philippines, rightly observed:

Akihito has repeatedly expressed regret for the damage caused by the war but has never offered a straightforward apology. The furthest he has gone is to express "deep" remorse in an address last year marking the 70th anniversary of the end of the war.[15]

The fact that he, and Japanese society as a whole including the government, generally leave the matter of war responsibility ambiguous, and the fact that Japan is once again becoming “a country that can fight wars” under the U.S.-Japan military alliance and the set of “war bills,” are not unrelated.

The Philippine Starseems to understand this trip in terms of such political goals:

While he has been jeered on previous foreign visits, Akihito was welcomed with full state honors in the Philippines, which now depends on Japan as a leading trading partner, provider of development aid, and a major ally as Manila confronts an assertive Beijing in contested territories in the South China Sea.[16]

2.     “Independence of the Philippines” and “Battle of Manila”

Emperor Akihito during this trip gave two formal speeches, at Haneda Airport upon embarking and at the state banquet hosted by President Aquino in the Philippines. In these speeches, he mentioned “Independence of the Philippines” and the “Battle of Manila” of February 1945. The Japanese media generally praised these references, but Akihito failed to clarify critical elements of these historical events.

Imperial Japan that hampered Philippine’s independence
In his remarks during the state banquet in Manila, Akihito mentioned José Rizal (1861-1896) twice, and applauded him as a “national hero” who “pressed for independence” from “Spanish control.”[17]The couple even visited and placed flowers at the José Rizal Monument on the morning of January 27.[18] Rizal, a doctor, author, artist, was an anti-colonial leader who inspired the Philippine Revolution (1896-98) that freed the country from the three centuries of Spanish rule, only to be taken over by the U.S., after the Philippine-American war (1899-1902) that pitted Filipino revolutionaries against the U.S. Army.

If Akihito emphasized the “independence of the Philippines,” why did he only refer to “independence from Spain,” which was more than a century ago, and not independence from the United States or from Japan? It is worth recalling that the Philippines was at the brink of independence in 1941 on the eve of the Japanese invasion. While his father Hirohito’s army in effect thwarted Philippines’ independence and delayed it till after the Japanese war, his praise of José Rizal appears more like an intended concealment of the history of Japan’s own invasion and colonization of the country, which was ironically the very chapter of history Akihito wanted to address in this visit.

§  There was a special sentiment towards Japan on the part of the Philippines, which was invaded just before its independence from the U.S. In the International Military Tribunal for the Far East, the Filipino judge Delfin Jaranilla argued all Class-A war criminals be sentenced to death. Carlos Romulo, Secretary of Foreign Affairs of the Philippines at the time of San Francisco Peace Treaty told Japan “to demonstrate your spiritual repentance and proof of renascence before we extend our hand of forgiveness and friendship.” [19]

Horrors of the Battle of Manila and Emperor Hirohito’s responsibility

Akihito’s speeches touched on the Battle of Manila (February 3 to March 3, 1945), in which “a great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila,” and said that the loss of many Filipino lives in the battles on Philippine soil is “something we Japanese must never forget.” True, approximately 1.1 million people in the Philippines were killed in the battles on their islands, including those who were slaughtered by the Japanese Army. It is also unquestionable that the biggest responsibility of the war lay with Emperor Hirohito, who issued the imperial edict that started the war.

Hirohito’s responsibility is particularly noteworthy where the Battle of Manila is concerned, because on February 14, 1945, his close aide Konoe Fumimaro urged him to surrender, saying “defeat is inevitable,” in the document known as “Konoe Memorandum.” Hirohito rejected Konoe’s advice, saying it would be “difficult unless after one more successful battle.” If Hirohito had heeded Konoe’s advice, the casualties of the Battle of Manila would have been significantly less. Likewise, all the deaths of the six months between then and Hirohito’s surrender of August 15, including those of the aerial bombings of Tokyo (March 10) and other cities, the Battle of Okinawa, atomic-bombing of Hiroshima and Nagasaki, and civilian and military (including POWs) casualties in all areas affected by the Japanese war across Asia-Pacific would have been avoided.

If Akihito were to voice his concern over the “great many innocent Filipino civilians” who became “casualties of the fierce battles fought in the city of Manila,” should he have not first apologized for his father’s war responsibility? It is this history that “we Japanese must never forget,” not a concealed or glorified version of history.

3. Disguise of Japan’s responsibility as perpetrator of war and nationalism

Now, who did Akihito and Michiko meet and who did they not meet? Where did they go and where did they not go?

Japanese war-bereaved and former “comfort women”
The first war memory site that the couple visited was the Tomb of the Unknown Soldier at the Heroes’ Cemetery in Taguig in metro Manila on January 27. Japan’s national newspaper Asahi Shimbunreported that this visit took place at the insistence of the couple that the trip include a visit to Philippine war victims as well as Japanese war victims.[20] It appears that in the absence of their suggestion, Hirohito’s heir as emperor of Japan would have only visited the war memorial for fallen Japanese soldiers in his state visit to the Philippines.

Akihito and Michiko, however, could have visited another site too if they had truly wished to mourn the civilian victims of the Battle of Manila. They did not visit the monument dedicated to the victims of the Battle, “Memorare-Manila 1945,” although it is located near theJosé Rizal monument that the couple did visit on January 27. Memorare-Manila 1945 was built by the civilian survivors and their descendants in February 1995, the 50thanniversary of the Battle. It is a painfully vivid representation of the civilian suffering in the Battle, with the “figure of a hooded woman slumped on the ground in great despair for the lifeless child she cradles in her arms. Six suffering figures surround her, a glimpse of the great despair brought about by the gruesome massacres that were perpetrated all over the city inflicted by Imperial Japanese soldiers on civilians during the liberation of the city.”[21]
Marker of Memorare-Manila 1945 

The Inscription on the marker says: [22]
This monument is erected in memory of the more than 100,000 defenseless civilians who were killed during the Battle for the Liberation of Manila between February 3 and March 3, 1945. They were mainly victims of heinous acts perpetrated by the Japanese Imperial Forces and the casualties of the heavy artillery barrage by the American Forces. The Battle for Manila at the end of World War II was one of the most brutal episode in the history of Asia and the Pacific. The non-combatant victims of that tragic battle will remain forever in the hearts and minds of the Filipino people.

Is it possible that the pair would have wanted to visit this memorial too if they had the chance, just as they made an unplanned stop at the memorials for the Korean victims and that for the Okinawan victims in their war memory trip to Saipan in 2005? In his formal speeches, Akihito made references such as “During World War II, countless Filipino, American, and Japanese lives were lost in the Philippines. A great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila” (At Haneda Airport on January 26), and “During this war, fierce battles between Japan and the United States took place on Philippine soil, resulting in the loss of many Filipino lives and leaving many Filipinos injured” (at the state banquet on January 27), avoiding carefully whoactually killed those Filipino civilians. Perhaps the direct reference to “Japanese Imperial Forces,” Akihito’s father’s army, as the perpetrator of the “heinous acts” at Memorare-Manila 1945 was too inconvenient for the Japanese government which was intent on keeping the former emperor’s war responsibility as vague as possible.

The discrepancy between Akihito’s word that extended his remorse for the innocent victims of the war and the fact that he and his wife only visited war memorials for the fallen soldiers is another indication that any focus on the civilian casualties of war would be inconvenient to the true purpose of this trip for the two governments: to solidify and advance the bilateral military alliance. To reinforce that point, even though the Japanese media labelled this trip as “irei no tabi,” a trip for irei, and the imperial couple appeared to have embraced that purpose throughout the trip, the Imperial Household Agency’s official definition of the trip[23] does not mention it, whereas that for the previous trips to Saipan[24] and Palau[25] clearly stated that purpose.

The highlight of Akihito and Michiko’s trip, at least as shown in its extensive coverage in the Japanese media, was their visit on January 29 to the Japanese Memorial Garden at Cavinti township of Laguna province, built by the Japanese government in 1973 for irei of the approximately 518,000 soldiers who died in the Philippines, one of the biggest Japanese military casualties in all the Asia-Pacific battlefields.[26] The pair presented flowers and bowed, as 170 relatives of the Japanese war dead looked on, some quietly weeping. Though the practice of treating the emperor as a god was halted at the end of WWII as the emperor became only “human” and was redefined as a “symbol” of the nation in the post-war constitution, the fact that many Japanese still revere the emperor was clear in the emotional welcome of Akihito and Michiko by the families of the war dead and those of Japanese descent living in the Philippines. The Inquirer published a report on this event titled, “Demigod image of Japanese emperor remains among followers.”[27]There did not seem to be any resentment in these people’s minds in seeing the son of Hirohito, under whose command their loved ones died. They were among the half million Japanese men, the majority of whom died of starvation and disease.[28]

After the ceremony, Akihito and Michiko spoke to the families of the war dead, offering words of consolation like, “You must have gone through a lot of hardship.”[29] Families expressed their reactions in such phrases as, “My mind is full of emotions,” according to Japanese newspaper reports.[30] This is how the melodrama was created between a “merciful Emperor and Empress” and the families of the war dead and surviving soldiers. Japanese public broadcaster NHK aired the whole event live, as a special program, making it the main event of their visit to the Philippines. The visit was supposed to be about “friendship and goodwill,” but the emperor’s central message was presented as irei of the fallen Japanese soldiers.

There was another group of people who were eagerly awaiting the arrival of Akihito and Michiko, whether they noticed them or not. They were a group of Filipinas who were “comfort women” victims of the Japanese military sex slavery system, and their supporters, about three hundred in all. On January 27, while the pair was visiting the Tomb of the Unknown Soldier at the military cemetery, the lolas (grandmothers) belonging to the group Lila Pilipina and their supporters stood at Chino Roces Bridge in Manila for an hour under blistering sun, “urging President Aquino to tell Emperor Akihito to issue a public apology and give reparation to all ‘comfort women.’”[31]

Lila Pilipina was joined by a women’s group and political party Gabriela, whose representative Luzviminda Ilagan expressed frustration over President Aquino’s neglect of this issue during the emperor’s state visit, creating “an image in media and academe about his pacifism and ‘deep remorse.’” Ilagan said:

“Deep remorse as a personal sentiment by the Emperor will never be accepted by the war victims as official apology. Worse, it could all be a publicity stunt to mask moves by the Japanese Prime Minister Shinzo Abe abetted by US President Barack Obama to remove Japan’s anti-war constitutional provision and boost military missions abroad. Filipinos should be wary and oppose being dragged into another bloody war and another generation of comfort women.”[32]
On January 29, eight women who are members of another survivors’ group Malaya Lolas gathered in front of the Japanese Embassy in Manila and lit candles, while Akihito and Michiko were visiting the memorial for fallen Japanese soldiers.[33]

Did Akihito and Michiko know about these rallies for the former “comfort women”? If they spent so much time in meeting with, and giving “kind words” to the families of the Japanese military members and Japanese Filipinos, should they have not also met with and listened to the voices of those “comfort women” survivors, who were victimized by Japan, and still waiting for the government’s unequivocal apology, state compensation, and inclusion, instead of exclusion, of the history in Japanese school textbooks?

The Inquirer’s editorial addressing the visit echoes this sentiment:

For the generation of Filipinos who witnessed and lived through the atrocities of World War II, the Japanese Emperor’s visit to the Philippines this week is bound to summon painful memories that make forgiveness extremely difficult. The voices of the surviving Filipino “comfort women” who were captured and turned into sex slaves for Japanese soldiers may have been the most persistent. But they are not alone in asking: Is there an obligation to forgive and to forget?

Almost none of these emotions were reported in the mainstream Japanese media, which are known for their adulatory coverage of all matters related to the imperial family.

Ignored “Bataan Death March”
Bataan Peninsula is just about the same distance from Manila as Caliraya is, where the emperor and empress lay flowers at the monument to remember the Japanese war dead. This is where the “Bataan Death March,” which is central to the Filipino collective war memory, took place.

On April 9, 1945, the Japanese Army conquered Bataan, and forced about 76,000 prisoners of war (66,000 Americans, 10,000 Filipinos) to march from the southern tip of Bataan Peninsula to Camp O’Donnell, 11 km west of Capas, about 100 km, for days (partly also traveling by rail, in “cramped and unsanitary boxcars”), during which captives were “beaten, shot, bayoneted, and in many cases, beheaded.” Only 54,000 reached the camp and many who made it eventually died at the camp of starvation and disease.[34]

The Bataan Death March, in violation of international law concerning treatment of POWs, is notorious as one of the events symbolic of Japanese military’s atrocities. For the people of the Philippines, this history is not something that is in the past and forgotten. Indeed, a marathon, called the “Bataan Death March 102/160 Ultra Marathon Race,” dedicated to this history, is held every year.[35] This year, the 102 km ultra marathon started on January 30, the day Akihito and Michiko left the country. Was this just a coincidence?

There are many monuments along the route of the Bataan Death March to commemorate the suffering and perseverance of the POWs. If the Japanese emperor and empress’s intent was to “irei also for the Filipino war victims,” not just Japanese war dead, should they have not also gone to Bataan and presented flowers for the victims of the deadly march well-known in the Philippines and internationally?

And what about the American POWs? In fact, after a brief mention of the loss of American lives in his speech at Haneda Airport upon embarkation, Akihito did not acknowledge the American casualties or the abuse of POWs at all for the entire stay in the Philippines. Another form of selectivity in his irei was total exclusion of the thousands of Filipino resistance guerilla fighters who fought the Japanese Army throughout the occupation period. Akihito’s emphasis in his referral to the Filipino casualties were the “innocent civilians.”

There is a commonality between the sexual slavery survivors, whom Akihito and Michiko did not meet, and the memorials of “Bataan” and the “Battle of Manila” that the pair did not visit. It lies in the fact that they are symbolic of the war atrocities committed by the Empire of Japan. Would it be too much to suggest that the intent behind the emperor and empress’ trip was to evade Japan’s war responsibilities rather than face them?

How did the Japanese media report this trip? The newspapers quoted words of yearning from the war bereaved, former Japanese soldiers, and Japanese Filipinos. The media reports also stressed the “words of consideration” from the couple toward those from Japan and of Japanese descent. The politically moderate Asahi Shimbun editorial of January 29 noted, “The royal couple went all the way to the sites where fierce battles took place to show their wish for peace. We would like to share their feelings and thoughts.” Left-leaning Tokyo Shimbun’s editorial of January 26 said, “We would like to share the emperor and empress’s wish for peace conveyed by their numerous precious words.” Right-leaning Yomiuri Shimbun, the biggest national paper in the world, summarized the royal couple’s visit in its January 31 editorial that the way the emperor and empress sincerely face the history of the past war “must have made a strong impression on the minds of the people of the Philippines.”

A common feature of these commentaries across the political spectrum is a new kind of nationalism that attempts to mobilize Japanese nationals (kokumin) under the imperial couple – a nationalism that hides Japan’s responsibility for its aggressive war and aims to unite Japanese nationals under such a distorted “history.”

4. Emperor and empress’s “irei trip” is a forerunner for Abe-led constitutional revision

Prime Minister Abe made clear that he would make constitutional revision a main issue in the upcoming Upper House election (July 2016) and seek to amend the Constitution following the election. In short, the imperial couple’s trip to the Philippines for irei of the war dead was a forerunner of constitutional revision.

a)    Expansion of the emperor’s “public acts” stipulated in the constitution
The “imperial diplomacy” by the emperor and the empress is not included in the “acts in matters of state” allowed for the emperor in the current constitution.[36] The government has attempted to justify “imperial diplomacy” arguing that these are the emperor’s “public acts”. In the absence of any constitutional stipulation for such acts, an attempt was clearly being made to expand the emperor’s authority.

The Liberal Democratic Party thus attempts to add a clause to the current Article 7 of the constitution that stipulates “acts in matters of state.” In their “Draft of Revision, the Constitution of Japan” (issued on April 27, 2012), they have added a clause (in their draft, the 5th clause of Article 6), “…the Emperor shall perform public acts such as ceremonies held by the state, local public entities and other public entities”[37] LDP’s Q & A page for its constitutional revision draft explains this clause, “Some acts of the Emperor have a public nature. However, the current constitution has no provision for such public acts by the Emperor. This was why it was deemed necessary to have clear constitutional stipulation for such public acts.”

b)    Danger of making state religious activities constitutional
This article has shown that acts of irei for the war dead have strong religious connotations. This means that irei trips by the emperor and the empress may infringe Clause 3, Article 20 of the current constitution, “The State and its organs shall refrain from religious education or any other religious activity.” This is why the LDP draft for constitutional revision adds to the same clause, “…however, this does not necessarily apply to activities that do not exceed the scope of social rituals and customary acts.” If the constitution is revised as the LDP wishes, ireitrips by the emperor and the empress may be regarded as one of the “social rituals,” paving the way for making public religious acts by “the State and its organs,” including the emperor and the other imperial family members, constitutional.

c)     Setting the stage for making the emperor “Head of State”
In this visit, the Japanese emperor and empress were “state guests,” and the emperor even reviewed the Philippines’ guard of honour with President Aquino, in the state-sponsored welcome ceremony on January 27.[38] Emperor Akihito was precisely treated as “Head of State” throughout the trip. This is also exactly how the LDP envisions the new role of the emperor, by defining him as “Head of State” in its constitutional revision draft, a fundamental change from the “symbol of the State and of the unity of the People” in the current post-war constitution. The current definition was a departure from the constitution of the Empire of Japan (the Meiji Constitution) that defined the Emperor as “the head of the Empire,” “sacred and inviolable.”[39] De facto treatment of the emperor as “head of state” such as one seen in the Philippines visit paves the way to officially redefining the emperor one step closer to the pre-1945 definition.

This is how the emperor and the empress’ irei trip plays a political role in Abe’s and the LDP’s planned constitutional revision. It is all the more important that political use of the emperor in coordination with the move for constitutional revision be critically examined, particularly given the Japanese media’s virtual gag order on any matter related to the imperial family. Some liberal-minded Japanese pundits praise the “peace-loving” emperor to counteract Abe’s warmongering and undemocratic policymaking, but this is also a dangerous utilization of the person who is a mere “symbol”, someone who is constitutionally barred from being given any authority over the people of Japan, in whom sovereignty resides.  

Satoko Oka Norimatsu translated, and expanded Kihara Satoru’s four-part article on the Japanese imperial couple’s visit to the Philippines in collaboration with Kihara. The article was posted in Kihara’s blog Ari no hitokoto(“A Word from an Ant”) on January 23, February 1, February 2, and February 4.

Kihara Satoru, born in Hiroshima in 1953, is a freelance writer. He was staff writer for Japan Communist Party’s newspaper Shimbun Akahata, an evening paper, and a local newspaper. He lives in Fukuyama City, Hiroshima.

Satoko Oka Norimatsu is an Asia-Pacific Journal: Japan Focus editor, Director of Peace Philosophy Centre(Vancouver, Canada), and co-author of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States, Rowman & Littlefield, 2012.

Recommended citation: Kihara Satoru and Satoko Oka Norimatsu, "Political Agenda Behind the Japanese Emperor and Empress''Irei' Visit to the Philippines", The Asia-Pacific Journal, Vol. 14, Issue 5, No. 4, March 1, 2016.

Notes




[1]“Firipin gohomon,” The Imperial Household Agency, December 4, 2015. http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27philippines/eev-h27-philippines.html
[2] For example, in Mainichi Shimbun’s “Emperor's wishes to mourn war dead behind swift reciprocal visit to Philippines,” January 27, 2016. http://mainichi.jp/english/articles/20160127/p2a/00m/0na/022000c
[3] Shintani Takanori, “Minzoku gaku kara miru irei to tsuito,” Meiji Shotoku kinen gakkai kiyo, vol. 44, November 2007, pp. 178-180. http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f44-14.pdf
[4] Ibid. 
[5]“Remarks by President Obama After Touring the BRP Gregorio del Pilar,” The White House, November 17, 2015. https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/11/17/remarks-president-obama-after-touring-brp-gregorio-del-pilar
[6]“U.S. raises military aid to PH amid sea tension with China,” CNN Philippines, November 26, 2015. http://cnnphilippines.com/news/2015/11/26/Unites-States-Philippines-China-military-aid.html
[7]“Philippines offers eight bases to U.S. under new military deal,” Reuters, January 13, 2016. http://www.reuters.com/article/us-philippines-usa-bases-idUSKCN0UR17K20160113
[8]“Philippine Supreme Court Approves Return of U.S. Troops,” The New York Times, January 12, 2016.
[9]“Remarks With Secretary of Defense Ash Carter with Filipino Secretary of Foreign Affairs Albert del Rosario and Secretary of Defense Voltaire Gazmin,” US Department of State, http://www.state.gov/secretary/remarks/2016/01/251126.htm
[10]“Philippines offers.”
[11]“South China Sea ruling in Hague could be mid-2016 - Philippines lawyer,” Reuters, October 30, 2015. http://uk.reuters.com/article/uk-philippines-china-arbitration-lawyer-idUKKCN0SO2T420151030
[12]“Japan-Philippines Summit Meeting,” Ministry of Foreign Affairs of Japan, July 27, 2015. http://www.mofa.go.jp/region/page6e_000121.html
[13]“Japanese defense minister to visit Philippines as early as April in bid to boost security ties,” The Japan Times, January 5, 2016
[14]“Remarks by His Majesty the Emperor at the State Banquet in Honour of His Excellency Mr. Benigno Aquino III President of the Republic of the Philippines,” The Imperial Household Agency, June 3, 2015. http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/okotoba-h27e.html#0603
[15]“Emperor Akihito honors Japanese war dead in Philippines,”The Philippine Star, January 29, 2016. http://www.philstar.com/headlines/2016/01/29/1547615/emperor-akihito-honors-japanese-war-dead-philippines
[16] Ibid.
[17]“Remarks by His Majesty the Emperor of Japan at the State Banquet in Honour of Their Majesties at the Malacañang Palace,” The Imperial Household Agency, January 27, 2016. http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/speech-h28e.html#280127
[18] A photo of Akihito and Michiko presenting flowers at Jose Rizal Monument is at the Mainichi Shimbun website. http://mainichi.jp/graphs/20160127/hpj/00m/040/002000g/4
[19] Translator was unable to find the original source. This is a reverse translation of the Japanese translation of Romulo’s words that appear in Wakamiya Yoshibumi, Sengo 70nen – Hoshu no ajia kan, Asahi Shimbun Shuppan, 2014, pp. 174-5.
[20]“Ryo heika, Mumei senshi no haka de 2 funkan hairei – firipin gawa no irei,” Asahi Shimbun, January 27, 2016. http://digital.asahi.com/articles/ASJ1N2RNTJ1NUTIL00B.html?rm=495
[21]“Briefer: Memorare Manila 1945 Monument,” Republic of the Philippines Presidential Museum and Library. http://malacanang.gov.ph/75085-briefer-memorare-manila-1945-monument/
[22]“Memorare-Manila 1945,” The Historical Marker Database http://www.hmdb.org/marker.asp?MarkerID=25517
[23]“Firipin gohomon, heisei 28 nen,” The Imerial Household Agency, December 4, 2015.
[24]“Amerika gasshukoku jichiryo kita Mariana shoto Saipan to gohomon, heisei 17 nen,” The Imperial Household Agency, April 26, 2005.
[25]“Parao gohomon, heisei 27 nen,” The Imperial Household Agency, January 23, 2015.
[26]“Suji wa shogen suru – deta de miru taiheiyo senso,” Mainichi Shimbun, http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html
[27]“Demigod image of Japanese emperor remains among followers,”The Inquirer, January 30, 2016. http://globalnation.inquirer.net/135873/demigod-image-of-japanese-emperor-remains-among-followers
[28]“Suji wa”
[29]“Ryo heika, firipin de irei hatasu – Namida no izoku ni itawari no kotoba,” Kyodo News, January 29, 2016 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016012901001415.html
[30]“71 nen machiwabita irei – Ryo heika, Hi de senbotsusha kyoka,” Tokyo Shimbun, January 30, 2016. http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016013002000125.html
[31]“‘Comfort women’ want Japan’s apology, not VFA,” Bulatlat, January 28, 2016. http://bulatlat.com/main/2016/01/28/comfort-women-want-japans-apology-not-vfa/
[32] Ibid.
[33]“Filipino ‘comfort women’ call for Emperor’s help in seeking redress,” The Japan Times, January 29, 2016. http://www.japantimes.co.jp/news/2016/01/29/national/filipino-comfort-women-call-emperors-help-seeking-redress/#.Vs-LVJzhDWI
[34]“Bataan Death March,” Encyclopaedia Britannica. http://www.britannica.com/event/Bataan-Death-March
[35]“Bataan Death March 102/160 Ultra Marathon Race” Facebook
[37]“Nihonkoku Kenpo Kaisei Soan,” Jiyu Minshuto, April 27, 2012. https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
[38]“Philippine leader welcomes Japan’s emperor as ties blossom,” Daily Mail Online, January 27, 2016. http://www.dailymail.co.uk/wires/ap/article-3418660/Philippine-leader-gives-red-carpet-welcome-Japan-emperor.html
[39] The Constitution of the Empire of Japan. http://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html#s1

311の五周年、福島県が新聞に出した全面広告を見て―「誇張された福島」は「そこにはありません」なのか!!!On the 5th anniversary of the onset of Fukushima nuclear crisis

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今日(3月12日)東京新聞に福島県によるこのような全面広告が出ていた。

これは一言でいえば「福島を原発事故の場所というイメージだけで見ないでください」という広告なのだと思う。

原発の被害を隠したい人たちがよく使う言葉を借りれば、「福島県への風評被害をやめてください」というメッセージにも取れる。

しかしこの広告を見て思う。

311の5周年という大事な節目に、福島県が県民の税金を使って発するメッセージが、これなのかと。

あまりにも情けないのではないかと。

未曾有の原発事故が起こった場所として人類の歴史に長く刻まれざるを得なくなった福島に、いろいろな人間の姿があるのはそうだと思う。汚染のひどいところも軽いところもある。

しかし311の記念日だからこそ、動かしがたい厳しい現実から目をそらすのではなく、直視するメッセージであるべきなのではないか。

原発事故のため捜索活動もできず、沿岸部で放射性物質にまみれたままの幾多の死者たちがこの広告を見たらどう思うだろうか。

甲状腺がんをはじめとするさまざまな健康障害に苦しむ人たちがこの広告を見たらどう思うだろうか。

もちろん私にその人たちの代弁をする資格はない。

「いろいろな声によって誇張された福島はそこにはありません。」

これが一番言いたかったことなのだろう。

原発事故でばら撒かれ、いまも川、海、土壌、空気にある放射性物質のことをいうことを「誇張」と言っているのだろうか。

日本の首相は「誇張」どころか、「アンダーコントロール」と嘘をついてオリンピックまで招致した。東京を含む関東全域にも深刻な汚染地域はあるのに。

放射性物質のことを言うのが、制御とは程遠い原子炉のことを言うのが「誇張」だとしたら、

そんな「福島」は

「そこにはありません」なのか。

ないのか。

ないのか!!!!

ないのか!!!!!!!


★☆★


鎌仲ひとみ監督の新作『小さき声のカノンー選択する人々』を強く勧めます。

上映スケジュールなど情報はここ。 http://kamanaka.com/canon/ 

原発関連の数々の訴訟を手がける河合弘之弁護士が監督した映画『日本と原発 4年後』も強く推薦します。http://www.nihontogenpatsu.com/



放射性物質による被曝に焦点を当てた前者と、原発の政治的経済的技術的不合理を表現しきった後者は、お互い補完し合う秀作であると思います。

カナダ西海岸で、311の日が終わる前に。

@PeacePhilosophy 乗松聡子

東京の大家による「琉球新報」記者への賃貸拒否事件は絶対に許してはいけない Racism in Japan: A Tokyo landlord denies rental to an Okinawan newspaper editor

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『琉球新報』3月20日8面の「記者の窓」というコラムで新垣毅編集委員は、今回東京に赴任になった際、借りようとした物件の大家から「琉球新報には貸さない」という理由で断られたという信じがたい出来事を書いている。

人種差別を禁止する法律さえまだない日本では、賃貸などにおいて「外国人お断り」といった差別行為がいまだに横行している。しかし日本は国際人種差別撤廃条約を批准しており、日本国憲法は人種差別を禁止しているのだから、これは明らかに違憲、違法な沖縄差別、レイシズムである。

たとえばカナダに住む自分が日系の新聞社に勤めていてそれを理由に賃貸を断られたら、ただちに州の人権裁判所に持ち込むであろう。

沖縄は日本の一つの県であるが、独自の歴史、文化、言語を持つ地域であり、もとは独立王国であったところ日本に植民支配され、その地出身の人が日本本土で差別を受けてきたという歴史がある。その差別は今も米軍基地の大半を押し付けるという形で続いているのだ。

だから、その地の名「琉球」を冠した、その地を代表するメディアの一つである新聞社の社員が、その社の構成員であるという理由で賃貸拒否されたということは、その地とその地の人々に対する差別行為である、つまりレイシズムであるということは明らかだ。

これは絶対に看過してはいけない人権侵害事件である。このような差別を行った者は法的、社会的に処罰を受けるのは当然であり、内外のメディアも最大限に取り上げてほしい。

もちろんこれは沖縄に対する差別だけではなく、在日コリアンの人々、在日外国人の人々など日本における少数派に対するすべての差別をなくしていくためのウェークアップ・コール(警鐘)となるべきものと思う。

@PeacePhilosophpy ブログ管理人 乗松聡子

『琉球新報』3月20日8面より



Take Me with U

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Prince is dead?
Should I even believe it?
He was with me in my troubled youth
Of course, just an average one
My youth, was about him.
Not that anyone cares
He was with me in solitude
He was with me in love
He and his music made my younger years
So much richer,
Richer than they would have been without
Not that I can even imagine without.
But I don't want to say thank you yet.
It is maybe one of those tricks he is playing on us.
RIP? Doesn't even sound right.
Don't say it!
A Minneapolis Genius.
I haven't even been to Minneapolis.
Maybe I will go some day.
With or without him.
Prince.
I don't own you
But I loved you.


【声明】在日コリアン朝鮮籍者に対する出国時の誓約書署名要請に抗議する

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レイバーネットにも掲載されましたが、モントリオールの仲間の起草した声明文にブログ運営者(乗松聡子)も賛同したものをここに紹介します。



「在日コリアン朝鮮籍者に対する出国時の誓約書署名要請に抗議する」

413日付東京新聞朝刊によると、法務省入国管理局は現在、在日コリアンの内、   朝鮮籍者に限って、日本から出国する時、北朝鮮に渡航しないことと、もし、渡航した場合は再入国が出来ないことを承知で出国すると書いてある誓約書に署名を要請している。そして、署名なしの出国は原則認めないとも言っている。これは北朝鮮への独自制裁の一環として始められたそうだが、朝鮮籍の在日コリアンのみに出国、再入国に制限をつけるのは法的にも、人権上でも大いに問題があるのではないか。

まず第一に「朝鮮籍」とは「北朝鮮籍」を意味しない。19475月に出された、天皇最後の勅令「外国人登録令」によって、当時は日本国籍を有していた日本国内の朝鮮人は外国人登録された。つまり、日本国籍を有しながら、外国人登録もされるという二重政策が適用された。この外国人登録の国籍欄に記されたのが「朝鮮」である。1952年サンフランシスコ講和条約発効と同時に在日朝鮮人は全て、日本国籍を無効にされて、出入国管理令、外国人登録法の対象となった。この時、朝鮮籍を韓国籍に変えた人もいたが、韓国籍に変える人が急増したのは1965年の日韓条約締結後である。韓国籍であれば通常の旅券を持ち、永住権も取れるから、現在は韓国籍の人が圧倒的に多いが、朝鮮籍を変えずに持ち続ける人も勿論いる。そして、朝鮮籍の元はこの1947年の外国人登録令に記載されたもので、現在の朝鮮民主主義人民共和国(19489月建国。以後、北朝鮮と略す)ではない。「朝鮮半島出身」を意味するのが朝鮮籍だ。

1910年の強制併合で朝鮮人は、否応も無く日本人とされ、日本の敗戦で独立した祖国は大国の思惑で分断され、1952年に自分達の意向に関わりなくその日本籍を剥奪され(他国を植民地支配した国で支配が終わった段階で国籍選択の権利を認めたところは多い)、日本籍なら当然受けられる諸権利を奪われ、その後も指紋押捺等々、政治で自らのアイデンティティーを翻弄され続けた人たちにとって、国籍は簡単な選択ではない。

東京新聞の記事にもある通り、家族の中で韓国籍、朝鮮籍が混在している家庭も多い。日本人の多くはそういう背景を知らない。しかし、日本政府は勿論、朝鮮籍の背景を良く知っている。本来ならば、政府が説明して、人々の誤解を解く責任があるのに、現政府のやっていることは、政府によるヘイトクライムではないのか。公権力が理屈に合わない差別を始めた時、どんな残虐なことが起こるかは歴史が証明している。ナチスが国内のユダヤ人の権利を制限し始めた時、民衆による、ユダヤ人の店の打ちこわしなどが頻発したことは良く知られている。1923年の関東大震災では植民地からの安い労働力として、日本に住んでいた数多の朝鮮人を官憲と民衆がいっしょになって虐殺したことを決して忘れてはいけない。21世紀の今まさかとは思うが、昨今のヘイトデモなどを見ると、 それが杞憂とは言い切れない。

国の政策は社会の空気に大きな影響を与える。私たちの住むカナダも第二次大戦中は日系カナダ人を強制収容所に入れるという無茶なことをした。カナダの先住民の子どもたちを親元から離して、寄宿学校に入れるなどという酷い強制同化政策が1870年代から一世紀以上も続いて、先住民社会に今も癒えぬ傷を残している。しかし、このような差別政策に対する深い反省から、カナダは多民族、多文化主義を国是として、多くの移民、難民を受け入れて来た。勿論、問題も失敗も多々あるし、これからも失敗はあるだろう。しかし、人種も、文化も、背負っている歴史も違う人たちがお互いの違いを認めながら、共存することは可能だし、人種差別は許容しないという価値観は多くのカナダ人に共有されていると思う。

カナダに住む日系の市民として、日本政府に朝鮮籍在日コリアンに対する出国時の誓約書署名、その他の差別政策を即時中止することを強く求める。そして、多くの日本人が在日コリアンといっしょに立ち上がって、政府の差別政策を撤回させることを希望する。マイノリティーの人権を守れない社会は誰の人権も守れないのだから。

モントリオール在住 長谷川澄  (連絡先:sumi.hasegawa@mcgill.ca)
バンクーバー在住 乗松聡子

(賛同者)
橋爪亮子 ケベック州 モントリオール
鈴木博子 ケベック州 モントリオール
山田修 オンタリオ州 リッチモンド
上坂美和子 ケベック州 ポイントクレア
大槻ともえ ケベック州 モントリオール
田中裕介 オンタリオ州 トロント
安藤かがり BC州 バンクーバー
原京子 BC州 サレイ
尼崎竜一 オンタリオ州 トロント

ジョン・ピルジャー:なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか John Pilger: Why Hillary Clinton is More Dangerous Than Donald Trump (Japanese translation)

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 2016年のアメリカ大統領選挙は、民主党のヒラリー・クリントンと共和党のドナルド・トランプの対決となる公算が強まってきた。この2人の対決は何を意味するのか。これは日本に住んでいると見えにくい。ブッシュを出した共和党は保守主義でタカ派の軍事主義者、オバマの民主党は自由主義(リベラル)でハト派の平和主義者なのだろうか?この先入観に反して、オバマ政権では軍事費が過去最高に増大し、世界を覆う基地のネットワークは強化され、ドローンを使った一方的な戦争が仕掛けられている。民主党であろうと共和党であろうと軍事力を使って世界を支配しようとする点で違いはなく、軍事主義に対抗する勢力は二大政党システムに存在しない。異端と見なされるトランプより、むしろクリントンの方が、アメリカに通底する例外主義(アメリカだけは他の国々と違い、何をやっても許されるという考え)を代表している。
 この世界の真実から人々の目をそらしておくために、まやかしが流布される。人々の生存を脅かす暴力に対抗していくためには、メディアによるチェックと民衆の直接行動が、かつて無いほどに重要性を増している。
 ジョン・ピルジャーがシドニー大学で「世界大戦は始まった」と題して行った講演を編集した文章を、翻訳して紹介する。
 原文は、
https://newmatilda.com/2016/03/23/john-pilger-why-hillary-clinton-is-more-dangerous-than-donald-trump/
(前文、翻訳:酒井泰幸、翻訳協力:乗松聡子)



米大統領民主党候補ヒラリー・クリントン(画像: アメリカ大使館, Flickr)

なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか

ジョン・ピルジャー、2016年3月23日


私はオーストラリアの北の、太平洋の真ん中に位置するマーシャル諸島で、映画の撮影をしている。私が行ってきた場所のことを話すと、人々はいつも「どこですか、それは?」と聞いてくる。手掛かりに「ビキニ」のことを話すと、「水着のことですね」と返ってくる。

ビキニ水着が、ビキニ島を破壊した核爆発をほめたたえるために名付けられたということを知っている人はほとんどいないように見える。1946年から1958年までの間にマーシャル諸島でアメリカの手により66の核爆発装置が起爆され、それは12年で毎日1.6個の広島型爆弾が爆発したのに等しい。

現在のビキニは静かで、突然変異し、汚染されている。ヤシの木が奇妙な格子状に生えている。動くものはない。鳥は一匹もいない。古い墓地の墓標は放射能に充ち満ちている。私の靴をガイガーカウンターが「危険あり」と示していた。

私は砂浜に立って、太平洋のエメラルドグリーンが巨大な黒い穴へと落ち込んでいるのを見た。これは「ブラボー」と名付けられた水素爆弾が残したクレーターだった。その爆発は、人々と彼らが暮らしている環境を、何百キロ彼方まで、おそらく永遠に毒で汚染した。


そこからの帰路、私はホノルル空港に立ち寄り『女性の健康』というアメリカの雑誌に目をとめた。表紙にはビキニ水着を着た女性が微笑み、「あなたもビキニボディになれる」という見出しが躍っていた。数日前にマーシャル諸島で、私はかなり違った種類の「ビキニボディ」を持つ女性たちにインタビューしたばかりで、みな甲状腺がんなど命に関わるがんを患っていた。

その雑誌の微笑む女性とは違って、彼女らはみな貧しかった。史上最も危険で飽くことを知らぬ超大国の、犠牲者でありモルモットだった。

私はこの経験を、私たちのあまりにも多くを飲み込んでいるまやかし[distraction、注意をそらすもの]を挫くための警告として語る。近代プロパガンダの創始者であるエドワード・バーネイズはこの現象を、民主社会の「習慣と世論の、意識的で利口な操作」と表現した。彼はそれを「見えない支配」と呼んだ。

いったい何人が、世界大戦が始まったということに気付いているだろうか?今のところ、それはプロパガンダの戦争、嘘とまやかしの戦争だが、最初の誤った命令、ミサイルの一撃によって、これは瞬時に変化しうる。

2009年にオバマ大統領は、ヨーロッパの中心であるプラハの真ん中で、熱狂的な群衆の前に立った。彼は「核兵器のない世界」を作ることを誓った。人々は喝采を送り、泣き出す者もいた。メディアは陳腐な決まり文句を垂れ流した。オバマはその後、ノーベル平和賞を受けた。

全ては見せ掛けだった。彼は嘘をついていた。

US president Barack Obama. (IMAGE: whoohoo120, Flickr)
アメリカ大統領バラク・オバマ(画像: whoohoo120, Flickr)
オバマ政権が作ったのは、より多くの核兵器、核弾頭、核兵器運搬システム、核兵器工場だ。核弾頭への支出だけをとっても、オバマ政権下では他のどのアメリカ大統領よりも高く上昇した。30年間に費やした費用は1兆ドル[約百兆円]以上になる。

ミニ核爆弾が計画されている。B61モデル12と呼ばれるものだ。そのようなものは今までなかった。元米統合参謀本部副議長のジェームズ・カートライト大将は、「小型化すれば[この核]兵器[の使用]はもっと考えやすくなる」と語っている。

この18ヶ月で、第二次世界大戦以後で最大規模の、アメリカが主導する軍事力増強が、ロシアの西部辺境沿いに起こっている。ヒトラーがソビエト連邦に侵攻して以来、外国の軍隊がロシアに対してこのように明白な脅威を示したことはなかった。

かつてソビエト連邦の一部だったウクライナは、CIAのテーマパークになった。キエフでのクーデターを画策したアメリカ政府は、ロシアのすぐ隣にあってロシアに敵対する政権を実質的に支配している。文字通りナチスで腐敗した政権だ。ウクライナの代表的な国会議員たちは、悪名高いOUN[ウクライナ民族主義者組織]やUPA[ウクライナ蜂起軍]のファシストたちの政治的子孫だ。彼らは大っぴらにヒトラーを賛美し、ロシア語を話す少数派を迫害し追放せよと叫ぶ。

このことは西側ではほとんどニュースにならないか、真実を隠すために反対のことが報道される。

ロシアの隣国ラトビア、リトアニア、エストニアでは、アメリカ軍が戦闘部隊、戦車、重火器を配備している。世界第2の核大国に対するこの極端な挑発は、西側では黙殺されている。

核戦争の見通しをさらに危険なものにしているのは、中国に対する同時作戦だ。

中国が「脅威」と呼ばれない日はほとんど無い。アメリカ太平洋軍司令官のハリー・ハリス海軍大将によれば、中国は「南シナ海で砂の長城を建設している」。

彼が指しているのは、中国が南沙諸島に飛行場を建設していることで、フィリピンとの間で論争の種になっているが、ワシントンがマニラの政府に圧力をかけて賄賂を渡し、ペンタゴンが「航行の自由」という名のプロパガンダ作戦を打ち上げるまで、これは優先度の低い論争だった。

これは本当は何を意味するのだろうか?それは、アメリカの軍艦が中国の沿岸水域を巡回し支配する自由を意味するのだ。中国の軍艦がカリフォルニア沖で同じことを行ったらアメリカがどう反応するか、想像してみるが良い。

私は『The War You Don't See』(見えない戦争)という映画を作ったが、その中で私は、アメリカとイギリスの著名なジャーナリストたちにインタビューした。CBSのダン・ラザー、BBCのラゲ・オマール、オブザーバー紙のデヴィッド・ローズのような記者たちだ。

彼ら全員が言ったのは、ジャーナリストと放送局がきちんと仕事をして、サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているというプロパガンダに疑問を突きつけ、ジョージ・W・ブッシュとトニー・ブレアの嘘をジャーナリストが大声で繰り返すことがなければ、2003年のイラク侵攻は起きなかったかもしれないし、何十万人もの男女と子供たちは今も生きていたかもしれないということだった。

ロシアや中国に対する戦争の準備をするプロパガンダも要は同じである。私の知る限り、たとえばダン・ラザーのような西側の「主流」ジャーナリストの誰一人として、なぜ中国が南シナ海の飛行場を建設しているかを問う者はいない。

その答はまぶしいほどに明白だろう。アメリカは弾道ミサイル、戦闘部隊、核武装爆撃機を有する基地のネットワークで中国を取り囲んでいる。

この死を招く弧は、オーストラリアから太平洋の島々に沿ってマリアナ諸島、マーシャル諸島、グアム、そしてフィリピン、タイ、沖縄、韓国に延び、ユーラシア大陸を横切ってアフガニスタン、インドへと続いている。アメリカは中国の首に縄を結び付けたのだ。これはニュースにならない。メディアによる沈黙、メディアによる戦争だ。

2015年には極秘のうちに、アメリカとオーストラリアが「タリスマン・セーバー(Talisman Sabre)」と呼ばれる単一では近年で最大の海空軍事演習を実施した。その目的は、マラッカ海峡やロンボク海峡のようなシーレーンを封鎖し、中国が石油、ガスその他の重要な原材料を中東とアフリカから入手できないようにするAir-Sea Battle(空海一体戦)計画をリハーサルすることだった。


Donald Trump speaking at the 2015 Conservative Political Action Conference (CPAC) in National Harbor, Maryland. (IMAGE: Gage Skidmore, Flickr).
メリーランド州ナショナルハーバーで開催された2015年の保守政治活動協議会(CPAC)で演説する
ドナルド・トランプ(画像: Gage Skidmore, Flickr)
アメリカ大統領選挙戦というサーカスで、ドナルド・トランプは変人、ファシストとして紹介されている。彼は確かに不愉快な人物だが、彼はメディアの憎悪対象でもある。このことだけでも、我々は怪しいと思うべきだ。

トランプの移民観は異様だが、デーヴィッド・キャメロンの見解より異様というわけではない。最も精力的にアメリカからの強制送還を押し進めているのはトランプではなく、ノーベル平和賞受賞者のバラク・オバマだ。

ある重鎮リベラル派コメンテーターによると、トランプはアメリカで「暗黒の暴力的勢力を解き放とうとしている」そうだ。「解き放つ」だって?

この国はすでに、よちよち歩きの幼児が母親を銃で撃ち、警察が黒人に殺人的戦争を仕掛けるような国なのだ。この国は50を超える外国政権を(その多くは民主主義国家だったが)攻撃して転覆させようとしてきた。この国はアジアから中東までを爆撃して何百万もの人々の命を奪い、住む場所を奪ってきたのだ。

他のどの国も、この国の組織的暴力の歴史には太刀打ちできない。アメリカの戦争は(ほぼ全て無防備な国に対するものだが)ほとんどが共和党ではなく民主党のリベラル派大統領によって開始されている。トルーマン、ケネディ、ジョンソン、カーター、クリントン、オバマ。

1947年に、アメリカ国家安全保障会議の一連の命令は、アメリカ外交政策の主要な目的を「[アメリカ]自身のイメージに従って実質的に作り直された世界」と表現した。そのイデオロギーは救世主的アメリカ主義だった。人類はみなアメリカ人だ。さもなくば。異教徒は改宗させ、転覆させ、賄賂を与え、名誉を貶め、押し潰す。

ドナルド・トランプはこのようなアメリカ症候群の一つの現れではあるが、彼は異端者でもある。彼はイラク侵略が犯罪だったと言い、彼はロシアや中国と戦争したいとは思っていない。我々一般人にとっての危険はトランプではなく、ヒラリー・クリントンだ。彼女は異端者などではない。アメリカというシステムが誇りとする「例外主義」は、時折リベラルな顔を見せる全体主義なのであり、クリントンはそのシステムの根強さと暴力性を体現する存在だ。

大統領選挙の日が近付くにつれ、彼女の犯罪と嘘にもかかわらず、クリントンは初の女性大統領として歓呼されるだろう。ちょうどバラク・オバマが初の黒人大統領として賛美され、自由主義者が彼の「希望」についての戯言を鵜呑みにしたように。こうして口からよだれが流れ続ける。


new matilda, drone
アメリカの攻撃用ドローン(画像: Wikipedia)
ガーディアン紙コラムニストのオーウェン・ジョーンズが「楽しく、魅力的で、他のほぼ全ての政治家たちから身をかわすクールさを持っている」と評したオバマは、先日ドローンをソマリアに送り150人を虐殺した。ニューヨーク・タイムズによれば、彼はいつもドローンによる死の候補者リストが手渡される火曜日に人を殺す。何とクールな。

2008年の大統領選挙戦でヒラリー・クリントンは、イランを核兵器で「完全に抹消する」と脅した。オバマ政権の国務長官として、彼女はホンジュラスの民主政府の転覆に参加した。2011年のリビアの破壊に彼女が関与したときは、楽しそうと言ってもいいほどだった。リビアの指導者カダフィ大佐が公開の場で肛門をナイフで突かれたとき(これはアメリカの計画で可能になった殺人だったが)クリントンは彼の死をさも満足そうに眺めて、こう言った。「我らは来た、見た、彼は死んだ」。

クリントンに最も近い盟友の一人であるマデレーン・オルブライト元国務長官は、「ヒラリー」を支持していないという理由で若い女性たちを非難した。これは、50万人のイラクの子供たちの死を、「それだけの価値がある」と忌まわしくもテレビで祝福したのと、同じマデレーン・オルブライトだ。

クリントンの大口支援者の中には、イスラエルの圧力団体と、中東での暴力に油を注ぐ兵器会社がいる。彼女と夫はウォール街から巨額の金を受け取った。それでもなお、公認の悪魔、邪悪なトランプをやっつけ、女性を代表する候補者として、彼女は任命されそうな勢いだ。彼女の支持者たちには著名なフェミニストもいる。アメリカのグロリア・スタイネムやオーストラリアのアン・サマーズのような人々だ。

一世代前、今は「アイデンティティ・ポリティックス」と呼ばれるポストモダンのカルト宗教のせいで、知性あるリベラルな多くの人々が、支持する主義や人を厳しく吟味することを止めてしまった。たとえばオバマとクリントンのいんちき、あるいは国民を裏切って敵と手を組んだギリシャの急進左派連合のような偽の革新運動などは、吟味されねばならなかった。

自己陶酔、つまり一種の「ミーイズム」[自己中心主義]が、特権的な西側社会での新しい時代精神になり、戦争や、社会的不公正、不平等、人種差別、性差別に反対した、大規模な集団的運動が終焉する前兆となった。

現在、この長い眠りは終わったのかもしれない。若者たちは再び奮起しつつある。徐々に。イギリスでジェレミー・コービンを労働党の党首に推した数千人の人々は、この目覚めの一部で、それはバーニー・サンダース上院議員を支持して結集した人々も同様だ。

しかし先週イギリスで、ジェレミー・コービンに最も近い盟友で、彼の影の財務大臣、ジョン・マクドネルは、海賊的な銀行の負債を支払い、実質的にいわゆる緊縮経済を継続することを、労働党政権に約束した。

アメリカではバーニー・サンダースが、もしクリントンが指名されたら、その時には彼女を支持すると約束した。彼も、「正しい」と思うときには他国に対しアメリカが暴力を使用することに、賛成票を投じた。サンダースは、オバマは「すばらしい仕事をした」と言っている。

オーストラリアでは、ある種の「墓掘り人の政治」が行われている。そこでは長く退屈な国会の駆け引きがメディアで繰り広げられ、その間にも難民と先住民は迫害され、不平等が広がるとともに、戦争の危険が増大する。マルコム・ターンブル首相の政権が1950億ドルの防衛予算と呼ばれるものを発表したところだが、それは戦争に向かって突き進むためのものだ。討論はなかった。沈黙だけだった。

政党の拘束を受けない民衆の直接行動という素晴らしい伝統に何が起きたのか?より良く公正で、平和な世界に向かう長い道のりを歩み始めるために必要な勇気と想像力、献身はどこにあるのか?芸術、映画、演劇、文学の世界で、反体制派はどこにいるのか?
沈黙を打ち破る者たちはどこにいるのか?それとも、我々は最初の核ミサイルが発射されるまで待つとでもいうのだろうか?
(以上、翻訳終わり)

John Pilger

著者のジョン・ピルジャー(John Pilger) は、1939年オーストラリア生まれ、ロンド ン在住のジャーナリスト、ドキュメンタリー映画作家。50本以上のドキュメンタ リーを制作し、戦争報道に対して英国でジャーナリストに贈られる最高の栄誉「ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」を2度受賞、記録映画に 対しては、フランスの「国境なき記者団」賞、米国のエミー賞、英国のリチャード・ディンブルビー賞などを受賞している。ベトナム、カンボ ジア、エジプト、インド、バングラデシュ、ビアフラなど世界各地の戦地に赴任した。邦訳著書には『世界の新しい支配者たち』(井上礼子訳、岩波書店)がある。また、過去記事は、デモクラシー・ナウTUPなどのサイトにも多数掲載されている。


関連投稿


ジョン・ピルジャー「今なぜファシズム台頭が再び問題になるのか」(2015年3月28日掲載)

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/03/jon-pilger-why-rise-of-fascism-is-again.html



トランプ爆弾(ジェレミー・バーンシュタイン) Jeremy Bernstein: The Trump Bomb - New York Review of Books

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 トランプの軍事外交問題についての無知は底なしだ。「日本が駐留経費の負担を大幅に増額しなければ在日米軍を撤退させる考え」であることばかりが日本では報道されたが、そのインタビューで、トランプの言説がどれほど誤りに満ち、でたらめなものだったかが抜け落ちている。
 在日米軍は「日本のために」駐留しているかのように言うが、世界を覆う米軍基地ネットワークの一部としてアメリカの利害のために居座っていることを知らないようだ。すでに世界のどこにもないような額の「思いやり予算」を日本が支払っていて、むしろアメリカが搾取している側だということも、全然分かっていないようだ。「核による温暖化」などは空いた口がふさがらない。核の冬のほうが深刻な影響だと考えられていることも知らないようだ。
 アメリカの定評ある書評誌『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』に掲載された、理論物理学者で科学エッセイストの、ジェレミー・バーンシュタインによる論説を翻訳して紹介する。
(前文・翻訳:酒井泰幸)


Donald Trump speaking at the 2015 Conservative Political Action Conference (CPAC) in National Harbor, Maryland. (IMAGE: Gage Skidmore, Flickr).
メリーランド州ナショナルハーバーで開催された2015年の保守政治活動協議会(CPAC)で演説する
ドナルド・トランプ(画像: Gage Skidmore, Flickr)

トランプ爆弾


ジェレミー・バーンシュタイン、2016年5月12日号

私は先日、ドナルド・トランプ氏に核問題について個人授業をいたしましょうと申し出た。正確に書くなら、私は彼のウェブサイトを訪れ、コメントを送る欄があるところに、これらの物事について彼はクソと味噌の違いも分かっていないようだと、私のコメントを書き始めた。彼は単刀直入な話を好みそうな人なので、私の率直さを受け入れてくれるかも知れないと思った。続いて私は、彼の支持者ではないけれども、彼がもっと明確にこの問題を理解できるように、私は物理学者として喜んで個人授業をすると書いた。このコメントに回答はなかったが、ニューヨーク・タイムズの2人の記者と3月26日に行ったインタビュー(書き起こしはネット上で閲覧可能)は、私の貢献が切実に必要なことを示していた。*

記者の一人はデビッド・E・サンガーだったが、彼はこの問題の非常に優れた専門家だ。彼はインタビューとそれに添えられた記事の中で、ほとんど仏陀のような自制を見せた。彼がインタビューの電話を切った時、私がその場に居てあげられたらどんなに良かったろうと思う。もう一人の記者は元『ポリティコ』誌のマギー・ハーバーマンだった。彼女はこう切り出した。

月曜日[2016年3月21日]にワシントンでお話しになったことについて、いくつか伺いたかったのですが、そのことについてはこれまでたくさんお話になっていますので、あなたはいくつかの場面で、日本と韓国は自国の防衛費をもっと負担して欲しいと発言されましたね。これまで30年間あなたは日本について同様のことを語ってこられました。これらの国々が北朝鮮と中国からの脅威にさらされていることを考えると、自前の核兵器を手に入れた場合、あなたは反対しますか?

トランプ氏、

ああ、そうですね、いつかは、我が国がこのようなことをもはや続けられない時を迎えるでしょうし、メリットとデメリットがあることは承知していますが、今は我が国が守っています。基本的には我が国が日本を守っていて、我が国は北朝鮮が頭をもたげるたびにですね、日本から要請が来るし、至る所から要請が来ますね。「何かしてくれ」と。ですが我が国がこれ以上何もできなくなる時が来るでしょう。では、それは核を意味するのか?核なのかもしれません。それは非常に恐ろしい核の世界です。私にとって、この世界で、最大の問題は、核と、核拡散です。同時にですね、我が国はお金のない国です…。
我が国は金持ちの国ではありません。かつて我が国は金持ちで、非常に強い軍と多方面にわたる強大な能力を有していました。もはや我が国はそうではないのです。我が国の軍はひどく疲弊しています。我が国の核兵器はとてもひどい状態です。彼らはそれがちゃんと動くかどうか分かりません。我が国は昔と同じではないのです、マギーさん、デビッドさん。つまり、わかってもらえると思うんですが。

マギーとデビッドに何をわかって欲しいと言っているのか、私には判然としない。日本と韓国が核兵器を持つことで、彼の「最大の問題」である核拡散を軽減できるかもしれないという考えなのか、あるいは我が国の核兵器が「とてもひどい状態で、彼らはそれがちゃんと動くかどうか分からない」ということについてなのか?誰がこんな馬鹿げた考えを彼に授けたのか?「彼ら」とは誰なのか?不幸にも、これらの質問が発せられることはなかったが、サンガーは勇敢にも食い下がる。

では、マギーの意見をちょっと補いたいのですが、これまでずっと日本の見解は、もしアメリカが、いつの日か、日本の防衛を負担に感じるようになったら、「じゃあ自前の核抑止力を持つべきだろう、アメリカが頼りにならないなら我が国で北朝鮮に思い知らせてやることが必要だ」と言う人々が、日本社会と韓国社会の一部には常に存在しています。それは理にかなった見解でしょうか?日韓両国が自前の核兵器を持つべき時が来るとお考えですか?

トランプ氏はこう答える。

そうですね、これは話す必要のある見解で、いつかは我が国が議論する必要のある見解でして、もしアメリカがこのまま行けば、現状の弱腰のままですね、私がそれを議論しようがすまいが、どの道あの国々はそれを持ちたくなる。というのは、我が国との間に起きることで、彼らがしっかり安全保障されているように感じるとは思えないからですよ、デビッドさん。だってそうでしょう、いかに我が国が敵国を支援、いや同盟国を支援してきたかを見れば、とても力強い支援などではなかった。世界中のいろいろな地域を見れば、力強い支援などではなかった。我が国が20年か25年前か、30年前と同じような目で見られているとは、とても思えないのです。ですから、問題だと思うんですね。そうでしょう、こういうのは、我が国が非常に強くならなければ、非常に強力で金持ちに、今すぐならなければ、我が国が議論しなくても、どの道あっちの方でそういうことが議論され始めることは確かだと私は思います。

サンガーはトランプ氏が質問にちゃんと答えるよう果敢に試みる。「あなたはそれに対して異議を唱えますか?」トランプ氏の答えは、

うーん、いつかは、我が国は世界の警察官であり続けることができなくなります。そして残念ながら、今ここには核の世界があります。現実には、パキスタンが保有しています。現実には、おそらく、北朝鮮が保有しています。つまり、あの国々にはミサイル技術がないのですが、おそらくですね、言いたかったのは、これは大問題だと言うことですね。で、私がむしろ核を持つ北朝鮮に核を持つ日本を対峙させる方を望むかですって?もしそうなればずいぶん楽でしょう。言い換えるなら、日本が自衛している相手の北朝鮮こそ、本当の問題だということです。そうすればずいぶん有利になるかもしれませんねえ…。我が国の対日関係の中の、一つですがね、ところで、私は日本の大ファンですし。日本には私の友だちがたくさん、たくさんいます。私は日本とビジネスをしています。でも、もしアメリカが攻撃されたら、日本は何もしなくても良いということなんです。もし日本が攻撃されたら、アメリカは全力で乗り出さなければいけません。分かるでしょう。それはとても片務的な条約なんです、現に。言い換えれば、もし我が国が攻撃されても、日本が我が国を防衛しに来ることはなく、もし日本が攻撃されたら、我が国は彼らの防衛に全力を上げなければならないのです。ですからそれは、それこそが本当の問題なのです。

つまり、日本が我が国を防衛できるようにするため、我が国は日本が核兵器を持つように仕向けるべきなのだ。核拡散が最大の問題だという意見と一体どのように噛み合うのかは明らかにされていない。たぶん良い核拡散と悪い核拡散があるのだろう。(トランプ氏は後に、彼が話に出した国々が核兵器を使って戦ったら「ものすごい」ことになると語った。)

ハーバーマンはさらに質問を続ける。

あなたは、我々が生きている核の世界についてお話しになっていましたが、何度もおっしゃいましたね、私も選挙運動中にずっとあなたがこうおっしゃるのを聞きました。アメリカが何をしでかすか分からない国になるのを、あなたは望んでいると。あなたは、敵国との衝突でアメリカが先に核兵器を使うことに賛成なさいますか?

トランプ氏はこう答える。

絶対に最後の手段です。それは最大の、個人的な考えですが、それは最大の問題だと思います。世界が、核戦力を持っているということが。それが唯一最大の問題だと私は思います。地球温暖化の話になれば、注意が必要なのは核による地球温暖化だと私は話します。世界で唯一最大です。今の兵器の威力はこれまでの想像をはるかに超えて、むしろ、考えることもできないほどですよね、その威力を。広島をご覧なさい、それを何倍にも、何倍にも大きくしたものが、現在あるのです。それが私には唯一最大の、唯一最大の問題なのです。

当然、議論はイランとの核交渉に及ぶ。トランプ氏が特に忌み嫌う相手だ。このやりとりで、基本的事実のいくつかを彼は知らないということが露見してしまう。彼はアメリカがイランに1500億ドルを「与えた」という言説を何度も繰り返している。アメリカが差し押さえた資金1500億ドルを「返した」のだということを彼は確かに知っている。これでは選挙演説の説得力は下がってしまう。しかし彼はこう付け加える。「イランは、今イランは金持ちですが、彼らはアメリカ以外の国から買っていることにお気付きでしょうか?彼らは飛行機を買い、彼らは何でも買っています。彼らはアメリカ以外のあらゆる国から買っているのです。私と商売をすることはなかった。」

これにサンガーが答える。「我が国の法律でイランに売れないからです、先生。」

トランプ氏が答える。「え、何とおっしゃいました?」

サンガーが答える。「我が国の法律でイランには飛行機を売ることができないのです。つまりアメリカにはまだ制裁措置があって、アメリカがそのような装備品を売ることができないようになっています。」

トランプ氏はこう答える。

だから、そんな馬鹿なことがあるでしょうか?我が国はイランにお金を与え、今度は「ボーイングの代わりにエアバスを買うがいい」と言うんですか?だからそんな馬鹿なことがあるでしょうか?そのこと自体は、おっしゃるとおり、正しいのですが、ところで今イランは買ってるんですよね、約118機買ったんです、118機のエアバスを。彼らはボーイングを買わなかったんですよ、いいですか?我が国がイランにお金を与えた。そしてそれをアメリカで使ってはいけない、アメリカに富と雇用を生み出してはいけないと言う。おまけにイランは、原則的には、そうすることができないということなんでしょうね、私の理解では。彼らはできないんです。信じがたいことです。我が国がイランに1500億ドルを与え、彼らはそれを我が国で使うことができない。

核のことを議論するとき、トランプ氏はしばしばMITの教授だった彼の伯父、ジョン・G・トランプの思い出をよみがえらせる。実際には彼は電気工学の教授で、第二次世界大戦ではレーダーの研究をした。彼が核兵器の権威だったと信じる理由はどこにもない。

もしトランプ氏に話す機会があれば、私は彼に、これはビジネスの取引ではないと説明してみるつもりだ。(このインタビューで彼は、イランは北朝鮮の一番の貿易相手で、このことを核交渉に入れるべきだったと主張した。一番の貿易相手は中国だという事実と、それが交渉の議題に上っていたという事実は、彼の注意から抜け落ちていたようだ。)イランはあと数ヶ月で兵器製造に十分な核分裂性物質を持てるところまで来ていた。いくつかの[制裁]規定が撤廃されるというのは本当だが、その時に爆弾が登場するということを意味するものではない。それが起きるまで時間はたっぷりとあるだろうし、我が国が対応を検討する機会もあるだろう。それまでは、トランプ氏とのインタビューが行われたのは、ロシア以外の50カ国以上が参加して3月末にワシントンで開かれた核セキュリティ・サミットの直前だったことを、私は指摘しておく。

たった一つだけ本当に輝かしい成果といえるのはイランで起きたことだ。しかし、アメリカはロシアとの軍縮条約の次の段階を合意できていない。北朝鮮が再び核実験を行うことは間違いない。インドとパキスタンは自国の兵器を近代化している。ベルギー人のテロリストが核物質を盗もうと画策していた証拠がある。そしてこれらの真っ直中に、無知の巨人、トランプ氏がいる。

* 書き起こしの全文は“Transcript: Donald Trump Expounds on His Foreign Policy Views,” The New York Times, March 26, 2016 を参照。デビッド・E・サンガーとマギー・ハーバーマンの“In Donald Trump’s Worldview, America Comes First, and Everybody Else Pays,” The New York Times, March 26, 2016 も参照。

(以上、翻訳終わり)

関連投稿:
ジョン・ピルジャー:なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか

「慰安婦」問題「日韓合意」を批判する―カナダの視点 A Canadian perspective on the Japan-Korea Agreement on the "Comfort Women" Issue

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4月に緊急出版された前田朗編著『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』(彩流社)に、当ブログ運営者の短文も寄稿しました。出版社の許可を得てここに転載します。

引用する場合の出典は以下です。

前田朗編著『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』彩流社、2016年、92-93頁



歴史の不正義にどう向き合うか―カナダの視点

乗松聡子

「カナダはサンフランシスコ平和条約の署名国の一つである。しかしこの条約の締結時点で日本軍による性奴隷の問題は表面化していなかった。だからこの問題を認識せずに署名した国として責任がある。カナダに関係がないとは言えない。」-2015年夏、元バンクーバー市議のエレン・ウッズワース氏はこう言った。この年、カナダ西海岸のバンクーバーの隣町、バーナビー市が市内の公園に、「慰安婦」にされた女性を象徴する「平和の碑」を、韓国の姉妹都市の寄贈により建立するという計画が、日本出身の住民を中心としたグループに激しい反対を受けたが、その反対の声の中に「カナダには関係ない」という見方があったことに対してであった。

カナダ下院議会は、第一次安倍政権が河野談話の撤回をもくろみ、「慰安婦」の歴史自体を否定しようとしていることを受けて、20071128日、「カナダ政府は日本政府に対し、1993年の河野談話における反省の表明をおとしめるようないかなる発言も放棄し、日本帝国軍のための『慰安婦』の性奴隷化と人身取引が起こらなかったかのようないかなる主張に対しても明確に公的に反論し、この強制売春の制度への日本帝国軍の関与に対し、すべての被害者に対し正式で誠実な謝罪を国会で表明することを含む全責任を取り、和解の精神にもとづき被害を受けた人たちと向き合い続けることを促す」という決議を可決した。

この連邦議会での決議からしても「慰安婦」問題がカナダと「関係ない」とは言えないのである。バンクーバーには、広島の被爆者ラスキー・絹子氏(故人)の胸像も公園に立っており、「ホロコースト教育センター」もある。カナダで起こらなかったことでも多文化社会のこの国が記憶し継承していかなければいけない歴史という意味では、性奴隷被害を象徴する少女像があっても何の矛盾もない。また、カナダでは多数の先住民の女性が性暴力などの犯罪の被害者になっているが、未解決のままの殺人や行方不明事件の真相究明の本格的作業がトルドー新政権によって始まったばかりだ。植民地主義の中での女性の人権侵害はカナダでは現在進行形の問題であるということからも、日本軍性奴隷の歴史をカナダ人が学ぶことには意義がある。

また、日韓間の「慰安婦」問題の「最終的で不可逆的な解決」とされた20151228日の「日韓合意」を、カナダの過去の「謝罪」と対比させれば気づくことも多いのではないだろうか。1988922日、当時のブライアン・マルルーニー首相は戦時日系カナダ人強制収容に対し、被害者の代表者たちが見守る中、「私は下院のあらゆる党派の議員を代表して、日系カナダ人、その家族、その文化的遺産に対して行われた過去の不正義に対し正式で誠実な謝罪をし、あらゆる背景を持つカナダ人に対して、このような人権侵害がこの国において二度と容認されたり繰り返されたりしないように厳粛なコミットメントと実行を約束します」と伝えた。カナダ国民の代表者である連邦議会の総意のもとに首相が自ら被害者の前で国家責任を認め、謝罪し、国家補償を約束し、記憶の継承と次世代への教育を約束した。これらは「慰安婦」の被害者が日本政府に求めてきたことと重なっており、これに照らし合わせると、首相が直接被害者に表明しないどころか、議会を通してもおらず公式文書も存在しない「謝罪」、国家責任への言及の曖昧さ、国家補償を回避し、記憶と教育の事業を行うどころか「もう二度と蒸し返すな」といった約束を迫り、挙句の果てには10億円の「基金」も「日本大使館前の少女像を撤去しないと出さない」といった脅しを行い、「性奴隷」という事実の否定を続けるなど、日本政府の「謝罪」の欺瞞が次々とあぶりだされる。

バンクーバー近郊における「像」設置計画への反対運動は、主に日本出身の移住者を中心に日本語で展開され、カナダ西海岸の日系人の多数派を占める、英語で生活する日系カナダ人たちにしっかり知らせることもなく進められた。背後には日本の右派運動体や日本総領事館の影響もあった。この反対運動について知った日系カナダ人のKさんは、「日系カナダ人が経てきた歴史をかんがみればこの像を支持こそすれ反対する理由は考えられない」と言っていた。これはこの計画の意味が、「反日」などではなく、戦時の人権侵害を記憶し、二度と起こさないという教訓を象徴する像であるという意義を理解した上での言葉である。戦時中、差別され迫害されたカナダの日系人だからこそ、同じ戦争被害者である性奴隷被害者の気持ちがよくわかるのだろう。

このように、日本政府による「像」撤去要求を含む「日韓合意」や、各地での「像」建立をめぐる論争に対し、日系人強制収容に対する謝罪・補償をはじめ、過去の不正義にカナダがどう向かい合ってきたかの歴史が示唆することは多い。


のりまつ・さとこ

『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』(http://apjjf.org/エディター。ピース・フィロソフィー・センター(peacephilosophy.com)代表。編著『正義への責任―世界から沖縄へ』(琉球新報社、2015年)、共著『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)など。カナダ・バンクーバー市在住。


関連記事:

(週刊金曜日2015年4月24日号)




「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についての意見 an opinion on the movement "Nobel Peace Prize for Japanese citizens who have maintained Article 9"

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日本国際法律家協会(JALISA)の機関紙 『Interjurist』 188号(2016年5月1日発行)に掲載されたブログ運営人の記事を転載します。

この記事でも触れている「沖縄」。1952年、サンフランシスコ平和条約により日本から切り離され米軍政下にさらに20年も置かれ、人権を奪われ続けた沖縄が、日本国憲法適用をもとめて選んだ1972年の「復帰」。しかし日本は沖縄から基地を動かすことをせず、沖縄を再び裏切った。結果的に沖縄は「憲法」からも裏切られ、その状態は現在にまで続いている。その「復帰」から今日は44周年である。この記事は物議を醸したが、憲法が大事であるからこそ、日本が憲法から排除し置き去りにした人たちのことをまず考えなければいけないという思いで書いた。


新連載 私は憲法9条をこう考える



「ノーベル平和賞」運動について


バンクーバー9条の会世話人
乗松聡子

JALISAとのつながりは10年前、私の住むカナダ・バンクーバーで2006年6月に開催された「世界平和フォーラム」でそのメンバーの方々に出会ったことがきっかけでした。その後私が日本に一時帰国したときに、笹本潤さんの誘いでJALISAのオフィスを訪ね、入会しました。海外にいて何もお役に立てない存在ですが、今回の寄稿は私のささやかな貢献と思ってください。

今回、私が海外を拠点に活動しながら抱いてきている問題意識をひとつ皆さんと共有したいと思います。
それは「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についてです。これには何度も賛同や協力のお誘いを受けましたが、私自身は最初に聞いたときから違和感を持ってきました。私は「バンクーバー9条の会」の創設メンバーとして、9条を守り生かしていこうという活動をしてきており、9条に対する基本的姿勢はこの運動を推進してきている人たちと同じであると思います。しかしこの運動にはどうしても賛同できないのです。

私が抵抗を感じるのは、「日本国民にノーベル賞を」と言っているところです。この背景には、9条自体をノーベル賞の対象とはできなかったという事情があることは承知しています。しかし日本人が「日本国民」をノーベル平和賞の対象にするというのは、自分で自分をノミネートしていることになります。そもそも賞とは、人から評価してもらうものであり、自分から求めるものでしょうか。「それのどこが悪い、9条は素晴らしいのだから」と反論する人がいるかもしれませんが、この自画自賛性を私が指摘することにはもっと根が深い問題があります。

それは、海外から観察していて、この運動に限らず日本人の「平和運動」は概して自画自賛的、自己中心的なものが多いということです。自分自身もそうでした。日本の被害を強調する「ヒロシマ・ナガサキ」や都市空襲、物資不足や占領地からの引き揚げの苦労といったことを語ることが「平和教育」だと思っている姿勢は、一歩日本の外に出たら通用しないときがあります。

憲法9条はそもそも、千言万語をもっても語り尽せない被害をアジア太平洋全域にもたらした日本帝国の軍国主義・植民地主義を牢獄に入れたというような性質を持ちます。しかしこの憲法の懲罰性というものを、日本の9条支持者たちもあまり自覚していないように見えます。逆に、「唯一の被爆国」、「焼け跡から生まれた憲法」といった概念とともに、艱難辛苦から立ち上がり「平和憲法」を守る立派な日本人といったイメージが作られています。「9条にノーベル賞を」という運動にも、日本人が日本の憲法を称賛する、というナショナリズムを感じざるを得ません。実際は日本が何も威張れた存在ではなかったから9条があるのです。最近メディアなどにとみに日本賛美の言説が目立ちますが、それと軌を一にするような動きにさえ見えるのです。

また「日本国民」という表現についてですが、日本国憲法は制定の過程で、占領軍の英語草案で People とあったものを日本側が敢えて「国民」と訳すことによって「国民」ではない人たち、すなわち日本国籍のない人たちが法の下に平等に扱われることを阻止した歴史があります。天皇は憲法施行の前日に最後の勅令「外国人登録令」を出し、在日朝鮮人と台湾人を憲法から切り捨てました。これをどれほどの日本人が知っているでしょうか。私は在日コリアンの友人から聞くまで知らず、心から恥じ入りました。天皇は自分の権限が正式にはく奪される前日にこのようなことを行っていたのです。

日本国憲法は法的には「日本国民」以外の人たちを排外はしていないようですが、在日コリアンや、基地被害を押し付けられ9条の枠外に押しやられている沖縄の人々など、事実上憲法が適用されない状況が続いている人々のことを想えば、容易に「日本国民」とは言えないのではないかという思いがあります。「日本国民」には自分たちは含まれていないと感じる人も多いでしょう。しかしこの人たちは、「日本国民」と憲法上同じ権利を保障されることを渇望してきました。そういう意味で、憲法を保持することに多いに貢献してきたのではないでしょうか。それなら、その人たちがあまり疎外感を感じないように、たとえば、「憲法9条を保持している人々」という方がよりよいのではないかと思います。

このような感覚は日本にいた時代の私にはありませんでした。カナダで自分は、国籍がないにもかかわらず、市民としてカナダの憲法下でカナダにいるすべての人間と同等の人権を保障されている安心感があります。それを意識して、初めて、日本で日々そのような安心感を持てずに暮らしている人たちの存在に気づいたのです。日本で日本人やっている限りは気づかなかったかもしれません。

私が平和運動に入ったきっかけは原爆の被爆者の方々との出会いであり、米日や他のアジア諸国の学生たちを毎年広島・長崎に連れていく平和の旅に参加し、被爆者の皆さんの声を世界に届ける活動をしてきました。日本軍がどれだけ極悪非道なことをしたとしても原爆で一般市民が大量殺りくされたことは許されざることです。海外で活動していると、アジア隣国の人々や元連合軍捕虜や遺族たちの中に根強い、「原爆のおかげで助かった」という歴史観に一対多数で立ち向かわざるを得ない場面もあります。私がこの原稿で書いていることはこのような立場から来ているものであり、決して日本の戦争被害者の被害を軽視しているものではありません。

このノーベル賞運動には、9条の国際的認知度を高め、安倍政権の好戦的政策や改憲を阻止する一助にしたいという狙いがあるのだと思いますし、その善意は疑いません。これを機会に、日本人の平和運動のあり方、そして日本国憲法が守ることができてこなかった人たちのことを一緒に考えませんか。

最後に、私の初稿にたくさんの貴重なご意見をくださったJALISAの理事の方々に感謝します。


乗松聡子(のりまつ・さとこ)
『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』(apjjf.org)エディター、平和教育団体「ピース・フィロソフィー・センター」(peacephilosophy.com)代表、「バンクーバー9条の会」(vsa9.org)世話人。編著に『正義への責任―世界から沖縄へ』(琉球新報社、2015年)、共著に『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)など。連絡先メール:info@peacephilosophy.com


田中裕介:歴史に何を学ぶか ­– 80年後に甦った「石の声」 Yusuke Tanaka Introduces New Publication: Torn Memories of Nanking

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日系カナダ人のコミュニティ、歴史、文化を伝える雑誌、『The Bulletin(げっぽう)』5月号に載った田中裕介氏の記事を許可の上転載します。


歴史に何を学ぶか­– 80年後に甦った「石の声」

田中裕介(トロント在住)

 年末の帰省便の機内で「日本の一番長い日」(原田眞人監督・2015)を見た。敗戦後の日本の方向性を決めた御前会議での政府首脳陣の苦悩は、緊迫感に溢れていて、復路でも再度鑑賞した。日本が無条件降伏するかどうかを迫られた時、青年将校が叫ぶ。「続行あるのみ!わが軍は局地戦では負けていても、戦争には勝っている!」。まるでプロ野球の放送席インタビューの台詞だなと思った。負けたチームの監督が「試合には負けましたが、プレーでは勝っていました。次に繋がるよい試合が出来たと思います」と言う負け惜しみだ。この論法で突き進むならば、全滅する最後の一人まで「負けていない」ことになる。これは、降伏はしたが正義の戦争だったと正当化する大東亜戦争史観である。

 全ての戦争は政治の破綻である。先ず国民の生命の安全を託された政治家が戦場に赴くべきだと思う。殺し合いで平和が達成できるのなら政治家はいらない。
著者の松岡環さん(413日、
トロント大での出版記念会で田中撮影)
 一方に、「南京大虐殺はあったのか、なかったのか」という日本人が飽きずに繰り返す議論がある。これは世界中の歴史学者を敵に回して、「なかったのだ」と主張する、いわば現代版「大本営発表」の妄信でしかない。当然にも「100人以上の犠牲を出した惨禍の都市や村は、中国全土で390カ所を数えました」という作家・松岡環さんの言説をも否定することになるだろう。初の英語による、南京戦での加害者と被害者の両方の証言集が4月に北米で出版された。

●リドレス以後の日系内部の変節
 193712月初頭から6週間ほどで30万人の中国人を日本兵が殺害したとされる事件が、来年2017年で80周年を迎える。僕は1989年に日系ボイスの日本語編集者になってから、「人権問題の番犬たれ」というNAJC(全カナダ日系人協会)の使命を担って、この問題を取材してきた。リドレス運動では、中国系、韓国系、先住民など20以上の民族系団体が支援してくれた。だから、今度は恩返しをする番だとするNAJCの姿勢は明快だった。だが、じきに決着する問題だと楽観していたが、25年経ても解決の目処はつかない。

 慰安婦問題も南京虐殺事件も、日本は世界を敵に回してしまい、本丸しか残っていない。政府が動かなければ埒があかないのは確かだ。2009年、NAJCトロント支部長が僕のデスクに来て、「これは日本と中国、韓国の問題であり、カナダが取り組むべき問題ではない。どこかで線引きすべきなのだ。でなければ、そのうちあんたとショーダウン(決闘か?)することになるだろう」と言われた。紙面で取り上げるなという圧力のつもりだったのだろう。

 だが、公の場でそんなことを発したら、カナダ市民から袋叩きにあうだろう。経済専門家マイケル・ジュノー・カツヤはその共著「Nest of Spies」(2009)で、カナダのアルファという人権団体は「中国政府のスパイである」と書いた。直ぐに告訴されて該当箇所が削除され、謝罪と賠償が課された。日本の戦争責任問題は、アジア系カナダ市民が今も抱える人権問題なのだ。僕自身が身をもってそれを実感した。

 1992年、戦後初の天皇による中国公式訪問に際して、トロントでは、南京事件の真相究明、謝罪、教科書への記述など5つの要求を提出して一万名の署名が集められ、250名が日本総領事館まで行進をして届けた。記者会見では、実際に日本軍に暴行をされた数人が現れて証言した。幼い頃、目の前で母親が強姦されるのを目撃した女性は絶句したまま、通訳と一緒に泣き続けた。ところが、その後、仕事場のある中華街を歩いていたら、買い物袋を抱えて急ぎ足で歩くこの女性とすれ違ったのである。その一瞬、自分が暮らすこの街が戦時中の中国の重慶や南京と時空を超えて繋がっているのだと悟った。

 そして、24年。史実の真偽を議論せずに、どう認識するかという議論にすり替えているのは、世界広しと言えども日本人くらいだろうと思う。「いくらなんでも3週間でそんなに殺せるはずはない。せいぜい5万人くらいだろう」と問題の焦点をはぐらかす作家がいる。「残念ながらそれを証明する書類はみつからなかった」と意図的に焼却された事実を顧みず、一次資料の欠如を吹聴する歴史家がいる。証拠として「ジョン・ラーベの日記」が出版されると、「ナチ党員のラーベが書いたものは信憑性に欠ける」と言い捨てて旭日旗を仰ぐ青年を知っている。

 トロントにワーホリで来た旭日旗青年と一年間付き合った。彼は第二次大戦中のいわゆる戦記物を愛読しており、とてつもなく戦史に詳しい。聞けば、父親は自衛隊員だという。「南京戦は迫撃砲戦だけで、掃討作戦でいくらかの死者はあったようですが、大量虐殺などなかったというのが歴史家の常識です。第一、日本人はそんな残虐なことをするようには教育されていない。そう思いませんか」と逆に、僕の《日本人性》が問われた。この根拠皆無の選民意識こそが二千万とも言われる殺戮を許したのである。何も変わっていない。

●新刊書「引き裂かれた記憶・南京戦」

 1980年代、小学校教員だった松岡環さんは、在日コリアンの教え子から「生徒には勉強しろと言うてるけど、先生は何を勉強しとん?」と、日本のアジア侵略の歴史の無知さを指摘された。そこで、1988年に南京への学習ツアーに加わったのが転機になったという。1997年から南京戦に従軍した三重県の元兵士たちを訪ね歩き聞き取り調査を重ねて、「南京戦­­−元兵士102名の証言」(2002年)にまとめた。何度も訪ねてゆくうちに、齢80を超えた元兵士たちは次第に話し始め、その数250名にのぼった。

 一方で、休暇を利用して頻繁に南京に通い、市内で老人たちを見かけると、「1937年当時、あなたは南京にいましたか」と捜し回り話を聞いた。「犠牲となった人たちも驚くほど協力的でした。わざわざ日本人が聞きに来てくれたと喜んでくれたのと、私が何も知らない女性だったこともよかったのかも知れません」という。中国側の聞き取りは300名に及んだという。

 だが、強姦されたことを認めた女性は、南京市内ではわずか「7名」。「家族が犠牲になったと語る人はいても、本人は決して語りませんね。夫や家族にもひた隠しにしているのです」。

 トロントの移住者女性から「もし慰安婦が20万人もいたのなら、何故もっと早くから名乗り出てこなかったのですか」と問われたことが2度ある。言外に韓国政府が仕組んだやらせだと言いたいらしい。僕は「日本でも新聞を通じて女性たちが募集され戦地に送られました。戦後、名乗り出た女性はいますか」と逆に質問した。答えは「たった一人城田すず子さんを除いて皆無」なのである。これが何を意味するかを、どうか考えてほしい。「石の声」を探してほしい。

 松岡さんによると、南京戦に加わった元日本兵たちは、「上海陥落から南京に至るまでは能弁に語るのですが、南京ではどうしましたかと聞くと、『(軍人会の)軍恩新聞に話したらダメやと書いとるやないか』と口を閉ざすのです」。掟破りの罰則は村八分だ。その恐怖と恥と世間体が真実を隠蔽しているのだ。

 もう一つ残念なことは、保守派が訴える「国益を守れ」と、真相究明を訴える活動家たちに投げつけられる「売国奴」という誹謗だ。こんな頑迷固陋な人たちのために、如何に莫大な「国益」を日本が国外で失ってきたことか。多民族社会の北米で感じる近年の日本の地位低迷、影の薄さをみれば明らかだ。真の「国益」とは、平和の維持である。海外から日本を見た時、軍国主義の象徴である旭日旗を振り回し、非戦日本の誇りを踏みにじるこういった「売国奴」こそ排除されなければならない。

 インタビューの最後に、海外からも支援しますと言うと、松岡さんは「外圧はダメです」と意外な反応が返ってきた。「外圧で政治が変わっても、社会は変わりません。内側から変化していかなければなりません」という。確かにそうだ。憎悪で充満したヘイトグループに外圧を加えてもいたずらに弾け飛ぶだけだ。彼らの憎悪をしぼませることができるのは、外圧ではない。内側から風穴を開ける日本人内部からの知性と理性だけだろう。

JCCAブルテン20165月号掲載記事を許可を得て転載しました。

“TORN MEMORIES OF NANKING”「引き裂かれた記憶・南京戦」は、既に出版されている「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて−­元兵士102人の証言」(2002年)と「南京戦・切り裂かれた受難者の魂­−被害者­­120人の証言」(2003年)から抜粋し再編集した初の英訳証言集。英語版は Toronto ALPHA 発行。問い合わせはinfo@alphaeducation.orgへ。


田中裕介(たなか・ゆうすけ)
元日系ボイス・マネージングエディター​ 。
​​現在は日系メディア等に寄稿している。トロント憲法九条の会、広島長崎記念日連合委員、トロント・コリアン映画祭理事。1994年以来トロントで「語りの会」を主宰し、海外にも出張し英語で日本の昔話、アイヌ民話や創作話などをギターの弾き語りをまじえて演じている。1951年札幌市出身。早大卒。



オバマと安倍は広島で国家の「過ち」を認めよ In Hiroshima, Obama and Abe should acknowledge their country's wrongdoing

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Obama's "Prague Speech" April 5, 2009.
「プラハ演説」2009年4月5日
5月27日、オバマ大統領(以下、オバマ)が現職米国大統領として初めて、1945年8月6日米国が原子爆弾で攻撃した地、広島を訪れる。

「謝罪」をする予定はない。原爆投下の是非の議論に立ち返るつもりもない。「プラハ演説」に続くような「ヒロシマ演説」をする予定もない。被爆者に会う予定も今のところ決まっていない。

「ないないづくし」の広島来訪である。これを被爆者は侮辱と思わないだろうか。

「核兵器なき世界を」と言っただけでノーベル平和賞をもらいながら巨額の予算をかけて核兵器の現代化を進めている。

しかも、安倍首相(以下、安倍)が同行するという。核兵器は違憲ではないなどと主張し、戦争準備を着々と進める人間を同行させ、選挙に向けて日本の極右政権に花を持たせるようなタイミングで広島に来る。

安倍はオバマ訪問に便乗し自分の手柄にしたいようだが、これを機に自分自身がまだ行っていない場所に思いを馳せるべきではないだろうか。

安倍は習近平主席と南京に行き、南京大虐殺の被害者を共に追悼できるのか。韓国に行って、朴槿恵大統領とともに慰安婦「少女像」に敬意を払うことができるのか。それぞれの地で生存している被害者に対して頭を下げることができるのか。

昨年末の「慰安婦」問題「日韓合意」の際、自分はゴルフを楽しみながら外相を派遣し、被害者に会うこともなく「二度と蒸し返すな」という脅しで「最終解決」をはかった安倍。

争う心と決別する歴史的な訪問としなければならない」なんてよくも言えたものだ。自分は中国や韓国、北朝鮮にあれだけ牙を向けておいて。

オバマも安倍の「謝罪」スタイルをロールモデルとすることだけは避けるべきだが、米国の原爆投下の過ちも認めない、被爆者にも会わない、というようなことであれば限りなく「安倍方式」に近づいていく。被害者の傷に塩を塗る行為となっていく。

オバマが核兵器の被害を真剣に学ぶのだったら行く意味はあるかもしれない。しかしそのためには、資料館に行くだけではなく被爆者と会わなければいけない。

被爆者という生身の人間がまだたくさん生きているのだから、「ヒロシマ」という地に行くだけで被爆者の前を素通りすることは許されない。

それも、米国人にとって聞き心地のいいことを言う被爆者だけではなく、オバマに会いたいと思う被爆者は全て会えるようにしてほしい。

また、広島にだけ行くということで、長崎をなかったことにさせてはいけない。広島において、広島と長崎両方に行っている意識で行動し、発言しなければいけない。長崎を二次的な扱いには絶対にせず、広島の被爆者と同じ比重で長崎の被爆者にも会うべきだ。

そして何より、全被爆者の1割をしめるといわれる朝鮮半島出身被爆者を忘れてはいけない。

日本政府も「唯一の被爆国」という表現をいい加減にやめるべきだ。これは日本を原爆の被害国として位置づける表現だ。そもそも日本は原爆の被害「国」なのか。

原爆の被害者は広島や長崎にいた市民たちである。この市民たちは他の日本の戦争の被害者と同様、日本国家が起こした戦争の中で被害を被ったのだ。

なにより、7万にも及ぶといわれる朝鮮人被爆者はまさしく日本の朝鮮植民支配が生んだものだ。

日本はこういった意味において原爆においても加害国といえる(日本の戦争全体が侵略・加害戦争であったことは言うまでもない)。

それでも安倍は「唯一の被爆国」の首脳づらをして広島に同行しようとしている。行くなら、安倍はオバマとともに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の前で頭を下げるべきである。

同時に二人は、韓国の被爆者よりもさらに無視されてきた朝鮮民主主義人民共和国の被爆者の存在も明確に認めることだ。

そうすれば、オバマ広島訪問が日本を戦争の被害国に逆転させるのではないかという周辺国の懸念に対する一つの返答となるだろう。

そしてオバマが、米国による原爆投下が間違っていたということを明確に認めるのは当然だ。

安倍も、天皇制の保持のために降伏のタイミングを遅らせ被害を広げたことを含む、皇国日本の侵略戦争全体の過ちを認める機会にしたらいい。

もちろん、原爆投下の過ちを認めることは、オバマ大統領が広島や長崎に行っても行かなくても、おこなうべきことだ。行くから認めるのではない。行っておいて過ちを明確化しないことは許されないから、言わなければいけないのだ。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから。」広島の「原爆死没者慰霊碑」の碑文は「過ち」の主体が誰なのかということで議論を呼んできた言葉だ。

オバマと安倍は自らの政府を代表してこの言葉を唱えることだ。「米国の」「日本国の」という主体を明らかにしながら。

ちなみにこれの英語版は LET ALL SOULS HERE REST IN PEACE. FOR WE SHALL NOT REPEAT THE EVIL とある。「過ち」をEVIL(「悪」)と訳しているのは非常に踏み込んだ意訳だ。

ということは、過去に広島を訪れた米国政府の要人、ペロシ下院議長、ルース大使やケネディ大使、先日のケリー国務長官は、原爆投下を「悪」と定義する碑に献花したということになる。

これはもっと注目されていいことなのではないか。

広島 「原爆死没者慰霊碑」
碑文
碑文の英語訳


★★★


友人のTさんの知り合いのジャーナリストが広島で取材した後こう言っていたという。「なんというか、軽いんだよね。お祭りさわぎなんだよ、広島全体が。」

広島・長崎の記憶を研究するTさんは言う。「オバマも来る、オリバー・ストーンも来る、やっぱり広島は『世界のヒロシマ』なんだ、平和のシンボルなんだで終わることのないように」と。同感だ。

「歓迎」ムードの中で、このような声や動きもある。

――「何年たっても腹が立っている。謝罪してほしい」(13歳のとき広島で被爆した雛世志子さん、那覇市)(5月12日琉球新報)

――「核廃絶に向けて米国の姿勢がはっきりしない。広島での大統領のあいさつは中途半端なものになるだろう」(18歳のとき広島で被爆した与那覇浩沖縄県原爆被害者協会副理事長)(同上)

――「・・・加害国の大統領として真摯に謝罪すべきだ。謝罪のない哀悼の意は口先だけのものになる。」(沖縄県原水爆禁止協会の矢ケ崎克馬代表理事)(同上)

――「手放しの歓迎は核兵器の非人道性を踏まえて禁止を訴える市や被爆者団体の立場とは矛盾する。行動を迫る働きかけがもっと必要ではないか。」(「核兵器廃絶を目指すヒロシマのの会」森瀧春子共同代表)同会は原爆投下が間違っていたことを認め、核兵器の法的禁止の議論に加わるよう米国に要請するという。(5月13日中国新聞)

――韓国の被爆者でつくる「韓国原爆被害者協議会」はオバマ氏来訪に合わせ代表を広島に派遣。平和記念公園でオバマ氏に謝罪を求める横断幕を掲げる予定だ。(同上)

――田中利幸氏ら市民グループは「オバマ大統領への謝罪要求のアピール文」をまとめ賛同者を募っている。


★★★

私は、アメリカン大学と立命館大学の広島長崎の旅で、被爆者の通訳を10年間務めてきた。オバマの来訪に合わせ広島に行くことになった。上記で触れた友人Tさんに、「オバマ氏の訪問で不可視化されたものを可視化してくれるような、そんな発言や映像を期待しています」と言われた。自分の果たせる役割を果たしたいと思う。

@PeacePhilosophy  乗松聡子

★この文はリンク、一部引用は歓迎ですが、全文転載希望の場合は許可を取ってください(info@peacephilosophy.comにメールを)。また、発表した後に加筆修正する可能性があります。

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